交錯する楕円、視点の惑乱

 そうしてイボ、白い点を眺めているうちに、これが何の中心か、いよいよ興味が湧いて来ました。
 フォトショップ・エレメントでは点、つまりイボや瞳を中心に、円や楕円を描けます。( 裏技的な方法ですが )

 まず、イボを中心に楕円を描いてみる。すると、ドンピシャリで額に垂れたベールの線に重なります。
 ぜひ右の絵をクリックして、拡大したものをご覧下さい。
 次に正円に近い楕円を描いてみると、向かって左側にはみ出したベールのふくらみと額の生え際に、ぴたりと重なります。
 思わずドキリとして、「 これはいったいどう言う事か? 何の意味があるのだろう ……… 」と思いながらも、
 「 いやいや、ここは答えを急ぐまい。」と自分に言い聞かせ、

 「 それじゃ、左眼を中心に楕円を描いたらどうだ。」と言う訳で描いてみると、これが見事にモナリザの後頭部と重なる!
 きれいな卵型です。


 ジャバスクリプトでもやってみました。
 こちらが上の、二つの楕円、  こちらが横の、卵型の楕円です。

 また明確な中心は持ちませんが、唇から頬骨、はみ出したヴェール、額と頬のてかりと起伏に、目が円を見つけてしまう。パソコンの液晶モニタのせいで強調されるのかと思って写真を見ると、やはりこれはある。これが一番目立つ楕円かも知れません。
 いったい無意識に拾った図形と、意識が見ている絵と、相互はどのように干渉し合うのでしょうか?

 そして三つのの楕円の下部はそれぞれ、唇の中心、唇の下、顎の線に重なります。
 何となく『 ウィトゥルウィウス的人体図 』( 下の図 )を思い出すではありませんか。ダ・ヴィンチは人が右脳、感性や感情で認識する物事を、同時に左脳でも理知的、論理的に認識していたのだと思います。いや、これは偉大な人の常で、ショウペンハウエルは「 天才とは二重の知性である。」と言い、芥川は瀕死の者の末期の声を、深い悲しみと共に発声法の考察をしながら聞いていた歌手の例を挙げています。これらは単に「 理性と感情 」と言う話でもないように思います。

   髪の生え際の楕円、
   ヴェールの楕円、
   その中心のイボ。
   後頭部の楕円、
   その中心の左の瞳、
 ……… これらを無意識のうちに、



 目が円として拾ってしまい、円を見た目はその中心を探してしまう ……… そして、

 絵の実際の中心線
 イボのような白い点
 左の瞳、
 瞳から幽かにはずれた絵の中心線
 目はとまどい、絵の上をさまよう ………

 これらはすべて、『 視点の惑乱 』を狙ったのではないか?
 レオナルドが何らかの目的で仕掛けた、見る者の視点を常に狂わせるための、工夫なのではないか?

 最近では目鼻口の間隔をミリ単位でスキャンして、空港などでテロリストの発見をしているそうですが、人は人の顔を、どのように認識するのでしょうか?
 これも、謎ですね。おそらくいくつかの方法を同時に使っているのでしょうが、その一つに「 複数の図形の単純な組み合わせ 」は、あるかも知れません。これは全く、自然が使いそうな手です。
 また、顔全体の輪郭とか、起伏とか、……… やはり複数のイメージの組み合わせでしょうが、その認識のいちいちには、何かを中心とした視点があるはずです。
 こいつを全部、混乱させられたら ………

 ダ・ヴィンチはモナリザに、見れば見るほどどうしても見れないような細工をしているのではないか?
 見れば見るほど解らなくなるように描いているのではないか?

 あなたはモナリザを眺める時、どこを見ているでしょうか? 私はモナリザを眺め回した時、視線が絵の上を変に動き回り、困るような感じがしたのです。どこを見て良いか、困るのです。
 他の人物画は実際の人の顔と同様に、まず目を見て、『 第一印象 』と言う、ショウペンハウエルに言わせると「 ほとんど常に正しい印象 」を得、その人の内面なり、画家の表現しようとしたものを、あるていど見当づける事が出来ます。絵画も小説と同じで、むしろ題名ではっきりと内容を謳( うた )っている事も多い。しかしモナリザに限っては、それがまったく出来ない! まるでダ・ヴィンチが、
 「 私が何を描こうとしたか、当ててみな。」
 と言わんばかりに。
 そう、モナリザに限っては、何が描いてあるか、さっぱり解らないのです!
 そして疲れて全体を見ると、微笑んでいる! ……… 最初に見た時と同様に ………
 この絵は、恐い! 
 たぶん、背景が製作当時のからりとした青空で、眉も美しくあった時の方が、おそらく恐い。よけい、怖いかも知れません。
 絵の劣化で薄絹が一枚はがれ、解かりやすく成ったのかも知れません。

 これには作品の劣化についてをお読みください。

 そしてもし、ダ・ヴィンチが計算づくでこれらの事をしたとすれば、天才の代名詞のように聞き慣れている名に、更に底知れぬものを感じます。しかしこれは、あながち私の妄想とも限りますまい。と言うのも、
 パソコンのソフトで描かれた楕円が実際の絵にぴたりと重なると言う事は、それが数学的な楕円であると言う事だからです。偶然である可能性は、絶無と言って良いでしょう。
 ( 楕円の方程式に合致する線と言う事です。また小学生の時、『 楕円とは二点を中心に持つ円である。』とも習い、大いに感動したものですが、これにはウィキペディアの楕円の項目をご覧下さい。二点と糸を使った作図法を、わざわざ動画で表わしてくれています。感謝です。これはぜひ、子供に見せてやって欲しいと思います。)

 微笑が単なる笑いではなく、何かの意図的・作為的な笑いでもあるのと同様に、この楕円も単なる長丸ではなく数学的な楕円を使っているのは、それが明らかに意図的である事の表明、何かが発見され考察される事を期待して描かれたと思って良いでしょう。


 しかしここで急いで付け加えて置かねば成らない事は、これらの楕円が視点の惑乱を狙ったものとは限らないと言う事です。別の目的かも知れませんし、複数の目的の一つかも知れません。ちょっと、考えられる反対意見や別の可能性を並べてみましょう。

 ( たとえば塩の結晶や葉の上の露のように、)数学的な図形は生き物にとってインパクトを与えるものだから、採用したのかも知れません。
 これは太古からの視神経の構造の都合とか、目が形を認識するため、元型としてイデアのように、心の中に数学的な図形があるなどの可能性です。いや、だから我々もモナリザを見ると、「 何か妙な感じ 」がするのかも知れません。
 そしてダ・ヴィンチは、自然の中に数学が生きている事に、興味と神秘を覚えていました。田中英道教授は言います。

 「 レオナルドの数学とは、幾何学だけを意味しているのであり、コンパスや定規をつかって形をつくりその神秘をさぐることが基本に存在している。( 中略 )それは円と方形の組み合わせによる完全性への希求にもとづくもののように見える。( 中略 )これはレオナルドがヴィトルヴィウスの書をよく知っていたことを意味するであろう。この書物には建築がこの人体の比例に従うべきだと述べられている。」( 出1 )

 これは聞き捨てなりませんね。おそらくは、これが最も重い理由です。下にヴィトルヴィウス人体図をもう一度貼っておきます。

 図形というのは不思議なものですね。昆虫などが見る紫外線の世界では、シロツメ草の葉はまさに  >><<  と言う模様で、「 こちらに来い。」と言っています。形状が信号として堂々、自然界全部で普遍的に通用しているのです。


 更に深読みをすると、楕円は明らかに音を表わしている。円と言う形状は、特に聴覚系の神経を刺激するようで、多くはご存知の通り、金属板に薄く砂を敷き、「 オー 」と言う振動を伝えてやると、まさにアルファベットが表現した通り、砂は円を描きます。そしてそれが実に自然に感じられる。我々は案外、音と形状を関連付けて認識しているようです。複数の波紋のような図形を見ると、聴覚系の神経が刺激され、心が不思議に惹きつけられるのかも知れません。

 私はなかなかキワモノ的な事を言いますね。しかしこれは後に知ったのですが、ケネス・クラークがレオナルドの絵画をモーツァルトの音楽に喩えているのです。
 よほどの開きがない限り、芸術には上も下もありません。そんな事は意味がありませんが、モーツァルトは他の作曲家と一線を画すように語られており、私も確かにそう思います。そうしてレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、同じような扱いを受けているのです。
 ではモーツァルトの独自性とは何か? 私は自然や生きているものに特有の『 ゆらぎ 』……… 木の葉がおもしろそうに風に舞ったり地面を転がったり、あるいは木々や森全体がなびいたり、水が急に踊ったり跳ねたり、またうねったり渦巻いたりするさま、そしてそれを眺めていて面白く感じている人の心の動きなど ……… ではないかと思うのですが、ケネスはレオナルドの絵画にそれを見るのです。
 彼は絵画を見ても、音楽を聞いた時と同じ感覚を得るようです。もし両者が同じものを表現しているとすれば、脳の同じ場所に同じパターンの刺激を得る事が出来るのでしょうね。これが『 アナロジー 』と言うものです。
 あの箇所を読んだ時には、文章の美しさに驚きました。(出2) 特にモナリザには、イメージが視覚系と聴覚系に分かれる以前の、深い意識にまで人を引き込む不思議な力があり、これは絵の全体構造の秘密にも関わって来ましょう。


 そしてこのHPを作りながら確信に近く成って来た事は、『 あの楕円は水の波紋に違いない。少なくとも、波紋としても描いた。』と言う事です。
 後に述べるように、『 モナリザ 』のみならず、レオナルド作品には水が大きな要素と言われているからです。
 まったく水と言うものは不思議なもので、ダ・ヴィンチは多くの水のスケッチを残していますし、私がむかし飼っていた猫も、水には大きな関心を示していました。( 笑 )
 ですからあの楕円を正確に発音すると、「 クラムボン」と成るのではないでしょうか?( 笑 )

 多分これらの楕円は、ダ・ヴィンチが、
 「 水の揺らぎ、動きを楕円を使って表現したもので、その結果、視点が惑乱される。」
 と言うのが本当だろうと思います。

 そして後に『 すべては水の中の ……… 』で述べるように、絵の表面に波紋があるという事は、この絵はすべて水の中の風景、無意識下の風景であるという事も表現しています。。

 また、何となく抽象画、あの三角や四角や円だけで構成されるような前衛絵画も連想しますね。
 これらの隠された楕円は、前衛絵画のご先祖だったのかも知れません。

 つまりダ・ヴィンチがモナリザに隠した謎の一つは、『 人間の認識の仕方 』ではなかったか?
 これは少し、人聞きが悪い。「 モナリザで表現しようとした事の一つは 」と言うべきでしょうね。でもそれなら、ダ・ヴィンチがモナリザを終生離さず持ち歩いたと言うのも、少し納得できるではありませんか。

 これらは楕円の考察に関するほんの、最初の一例です。ダ・ヴィンチの真意がどこにあるのかは、新しい楽しい謎です。

   《 作後挿入 》
 この時には気づいていませんでしたが、この楕円の一番の真意は、背景の本質 《 四分割 》で述べるように、世界卵、ウロボロスであると思います。モナリザの後頭部を「 きれいな卵型 」と表現しながら、問題の大きさのために気づかなかったようです。モナリザが『 世界 』であるためには、どうしても楕円を描かざるを得なかったのです。


(出1)『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 』法政大学出版局 P188。 (出2)『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 』法政大学出版局 P27や、P66L3など。

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