モナリザのモデルは、神 !

 現代の技術、X線写真などによって最初、一番下にはキリストの顔が描かれているらしいと判りました。
 写りは酷いもので、かろうじて判別できる程度。
 しかしこの像の写真を見たヨーロッパ人は、ほとんど例外なく「 イエスだ。」と答えるようです。(下記番組の街頭インタビューによります。)更に私がそれを模写しているのを見た友人が、「 キリストですか。」と聞きました。

 モナリザの下にキリストの絵が描かれている ……… そしてその輪郭は、ドンピシャリでモナリザに重なる。この事は06'05/20放映 フジテレビ土曜プレミアム 『 天才ダビンチ最大の謎と秘密の暗号 』よりはるか以前に、やはりどこかで見たか読んだ事があります。( 確か『 科学と学習 』とか『 中1コース 』などの、子供向けの雑誌だったような気がします。)つまり、かなり広く知られた事だったのです。(番組によれば、何でも50年以上も前に撮影されたものだそうです。)
 キリストと言えば、欧米人の理想の人物像、神人像ですよね。いや、
 「 神が人間の形をとった時の姿 」
 と言っていいかも知れません。
 その上を正確になぞって、モナリザは書かれた。
 ダ・ヴィンチは5年もの長きにわたり、絵の奥のイエス・キリストを凝視しながらモナリザを描いていたのです。これはまず、間違いのない事でしょう。  つまり、キリストがモナリザの『 下書き・下絵 』だったのです。
 とすれば、モナリザのモデルは、誰よりも、神だった(!)と言う事に成ります。

 ずいぶん昔に「 キリストが下書きに描かれている 」と判っているのに、今まで『 モデルは神説 』がなかったのは、非常に不自然な事です。いや、『 下書き・下絵 』と言う表現も、あまり聞いた覚えがない。『 塗りつぶされて 』などと良く聞いたように思います。
 それは誰しもこの微笑んでいる女性が『 神 』などとは、すぐには受け容れ難かったからではないか? ……… もしかしたら不遜な考えかも知れない ……… 意識にかなりの障壁、規制があったのでしょう。
 これはダ・ヴィンチの時代にはもちろん、今なお相当に衝撃的な事であると思います。

 ダ・ヴィンチ自身、まさか将来、奥に描いた絵を読み取る技術が開発される事を想定して、モナリザを描いた訳ではないでしょう。キャンパスにばっさりとキリストの顔を描いたのは、「 これから神を描くぞ!」と言う自身に対するコール、宣言ではなかったでしょうか?
 同時に「 モナリザを凝視すれば神に至るぞ。ここまで来い。」と呼びかけているのかも知れません。


 考えてみれば、モナリザのモデルなんて、誰だっていいじゃないですか。どうせ知らない人だし。
 それを我々は何故、色々と考え込んでしまうのでしょう? 本当に考え込んでしまいます。

 それぞれの説を唱える人には、深い確信があります。しかし、誰も他の疑問に答えた時のような、すっきりした気持ちには成れない。何か割り切れない。
 問題が、心を離してくれないのです。
 確かに我々はモナリザのモデルを論じながら、『 この絵はいったい何か?』を論じているのです。
 「 モナリザはレオナルドのどのような想いであったか?」つまり、「 この絵にはいったい何が描かれているのか? 少しでも手がかりが欲しい。」のです。それと共に、
 何となく絵の奥に不思議なものを感じ、それが何か知りたいのです。
 そう。この絵を見る人は確かに立体感、しかも浮き出すのではなく奥行きを、それも底知れない闇、深い水底をのぞき込んでいるような奥行きを感じるのです。( これが、絵の両端に描かれた『 柱の影の秘密 』と思います。この柱の影が目に入ると、鑑賞者は少し離れた所から絵を覗き込むような格好に成るのです。(出 1)

 田中英道教授はモナリザを「 美しい」とは言わず、「 個性的な容貌 」と表現しましたが、(出 2)この個性的な顔立ちの一人の女性と神とが、どうつながるのでしょう?
   ここで今までのモデルに対する論議をおさらいして見ましょう。


 まず、捨てきれないのが『 イザベラ・デステ説 』です。
 彼女はレオナルドに深い寵愛を垂れた極めて地位の高い女性で、もしイザベラ・デステがモデルなら、モナリザには彼女に対する深い尊敬と感謝が込められている事に成り、この考えは心情的にも捨て難いものに成って来ます。
 おまけにイザベラ・デステには、肖像画作成のための複数の素描、中には顔立ちとポーズ、組んだ手や絵のサイズの同じものまでが残っているので、イザベラ・デステはモナリザの中に少なからず生きていると考えるべきでしょう。
 ( もっともウィキペディアのモナリザの項目によれば、これらイザベラのデッサンはレオナルドの親筆かどうか異論があるそうです。)
 また、上位的女性は母概念とも重なります。

 『 愛人説 』は、レオナルドのこの絵に対する異常とも言える執着を説明したかったのかも知れません。モナリザは実際に美しくもあります。しかしケネス・クラークの
 「 彼女にたいするレオナルドの感情が、普通の男性の、美人にたいして抱く感情ではなかった」(出 3)
 と言う端的な言葉は、この考えがモナリザの全部ではない事を、改めて教えてくれます。モナリザの美しさは、この絵に込められた他の大きな事々の前に、すっかり霞んでしまっています。しかし製作当初には、美しさが前面に出ていたのかも知れませんね。ちょうど、人生における愛欲のようです。

 『 理想の女性像説 』は、この絵の鑑賞者に与える神秘性と印象、相当に高い、あるいは深い何かが描かれている事を感じての説でしょう。それは確かな事です。しかしこれもケネスが、岩窟の聖母の天使や二つの聖アンナ像と対比させて、
 レオナルドの理想の女性像は「 もっと穏やかで正常な女性であることがわかる。」
 と、これも反論の余地がありません。

 『 母親説 』は、母性が意識にとって重要なカギであると言っています。
 正妻の子ではなく、複雑な立場で幼少期を過ごしたレオナルドは、母性を希求したと言う訳ですが、これも絵全体の雰囲気とはかけ離れたものです。しかしやはり捨てきれる考えではありません。

 『 自画像説 』は、非常に普遍的な考えです。レオナルドの自画像を左右反転させると、ドンピシャリでモナリザの輪郭に重なるのですが、この事実は核心にも触れていましょう。

 『 裕福な商人ジョコンドの夫人、ジョコンダ説 』。これが『 モナリザ』の名前のもと、仏・英・伊でモナリザの通称の『 ジョコンダ 』、
 夫人(モナ)・リザ(エリザベッタの愛称)・デル・ジョコンド
 です。それはその通りでしょう。そして、
 「 もう難しく考えるのはやめよう。ただの絵じゃないか。」
 と言っています。
 「 ではあれは、ジョコンダと言う一婦人が描いてあるだけの絵か?」
 と聞かれれば、誰も「 そうだ。」とは言えなくなります。

 このように、諸説を唱える人も「 これが正解で、他は間違いだ 」とは思っていません。明らかにレオナルドは一つのものを描いた訳ではなく、むしろすべてを描いたように感じている ………
 モナリザの輪郭、目鼻口の位置は左右を反転したレオナルドの自画像とピタリと重なり、さらに奥に描かれたキリストとも、寸分狂わず重なる ………
 だいたい母とは、アニマとは、神とは何だろう ……… ?
 むしろ反対に、モナリザを眺めながらこれらの事を考えてみるのも一興かも知れません。


 母であり、理想の女性であり、自分自身であるもの。それは『 自己 』と呼ばれる自分のたましいの、女性的な側面です。
 また「 たましい 」を人格的に表現すると、どうしても女性的、中性的な様相を帯びてきます。
 そして神こそは天上の世界、遥かな高みにいて、しかも自分自身の心の中の、最も深い所で、いつも全てを支えてくれている、何よりも身近なもの ………
 神とは自己の最内奥の自己自身。
 神、仏は自分の心の中にいる。
 アニマとは、もともと『 たましい 』の意味である。

 これらの考えは、言い古されてはいますが、真面目な気持ちに成った時、確かにそのように感じられます。(もっとも、はっきり自覚できたら聖人でしょうが。)

 ……… 『 自己 』と呼ばれるもの ……… いったい自分とは何なのか? 我々はこれが知りたいのではないか?

 これが知りたくて、芸術家は作品に没頭し、学者は本の海を渉猟し、宇宙飛行士は実際に星の彼方に飛んで行きます。
 我々のあらゆる憧れ、望みの背後には、確かにこの『 自己 』があります。


 以上がモデルに対する考察と、モナリザの奥に神が描かれている理由、つまり「 あの絵には何が描かれてあるか?」です。少々急ぎ足でしたが、大筋は間違っていないと思います。
 この事は結論として、最後に持って来るつもりでいました。しかし最初に成ってしまったのは、後にも述べますが、
 「 世界をそのまま映したような作品は、全体が見え始めてやっと部分も意味を持ち始める 」(これも確かショウペンハウエルの言葉だったような。)
 からです。まったく、人生のようではありますまいか。

 「 なるほど、そう言う訳か。しかし何か、うまい事だまされたような気がする。結局モデルは誰なんだ ……… ?」

 ジョコンダではない。
しかしジョコンダでない訳でもない。
 イゼベラ・デステではなかった。
しかしイゼベラ・デステでない訳でもない。
 愛人ではない。
しかし愛人でない訳でもない。
 母ではない。
しかし母でない訳でもない。
 自画像でもない。

しかし自画像でない訳でもない。 ………………………

 ……… このフレーズは、……… 学生時代に聞いた覚えがあります。
 出所は空思想です。中観( ちゅうがん )哲学では、何でも否定の形で言うのです。
 つまり真実在、イデアとか物自体とか意志とか、あるいは素直に神と呼んでも良いのですが、そう言うものに対して、
 「 それは○○である。」
 とは、絶対に言えない訳です。
 答えを言った瞬間、それは間違いに成ってしまう。モナリザと同じです。
 それで否定の形ばかりが出て来る。聞いていて 「 いらっ 」 としますよ。(笑)
 「 神とはこんな格好をしている。」と言って、絵に描く訳にはいかない。それは無理です。
 だから本気で神を表現しようと思ったら、神そのものに至る道、それを詳細に描き、絵の奥にある塗りつぶした目に見えないものを、鑑賞者が自分の中に見て頂くしかない。
 神に至る道は、神を指し示す指である。
  ( これは、 レオナルド作品を貫く、一本の心柱かも知れません。 )
  だから個人的には、不正確な表現ながら、やはり『 モナリザのモデルは神 』と思っていました。
 ところが私には、長く気づかなかった事があったのです。それは、

 モナリザと呼ばれる中央に描かれた女性と、
 モナリザという絵画全体は、違うものだ。
(出 4)

 と言う事です。これをごっちゃにしていたから、私は最後まで混乱していたのです。
 更に言い直しましょうか? 我々は中央の女性をモナリザと呼び、そのモデルを論ずる事で「 レオナルドがあの絵で何を描こうとしたか?」を論じているのですが、

 中央に描かれた女性の意味と、
 モナリザという絵画全体の意味との関係。

 つまり、意識全体に対するアニマの役割ですが、それは両者をはっきり分けて認識しなければ、当然わからないものだったのです。


 それにしても 夫人(モナ)リザ(エリザベッタの愛称)・デル・ジョコンドは、夫から何と言うプレゼントを贈られた事でしょう。もはや人類が存続する限り、彼女の名が忘れ去られる事はないのですから。

 では今度は、我々の視点を惑乱させた当の『 モナリザの視線の行方( ゆくえ )』、つまり、モナリザは何を見ているのか? を考えたいと思います。


 PS.モデルについての更に詳しい考究は、
 モナリザは複数のボディラインを持つ
 母、娘、太母、そしてマリアから叡智へ
 などで扱っております。ここにオチがあります。


(出 1)ダニエル・アラスも同様の事を語っています。『 モナリザの秘密』(白水社)何ページか分からなくなった。
(出 2)『 レオナルド・ダ・ヴィンチ』田中英道 著 講談社学術文庫 p250
(出 3)『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 第二版』ケネス・クラーク 著 法政大学出版 P167
(出 4)『 「 モナリザ 」の微笑み 』布施英利 著 PHP新書 P92 しかしこの本を手にしたら、どうか順番にお読み下さい。読み手を喜ばすための、仕掛けをして下さっています。


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