作品の劣化について

 『モナリザ』はずいぶん劣化していて、例えば背景は本当は澄んだ青空だった。眉もちゃんと描かれていた。(?)もう一つのヴェールがあり、これは当時、妊婦がまとう物だった ……… などなどの事が語られ、
 「じゃあ今までの論議や、私たちが抱いていたイメージは、まったくの虚妄だったのか?」
 と、情けない気持ちに成ります。しかし反対に、「絶対にそんな事はないぞ。」と言う気持ちが、これは全ての人に確信に近くあるのではないでしょうか? つまり、

 芸術作品は歴史、時間、神との合作である。
 と言う事です。いやもう、笑われるかも知れませんが、私は強くそう思います。
 見られて来た時間、歴史が劣化に刻まれるのです。
 新品のモナリザは、あの時代だけにあるべきもので、作品はそれぞれの時代に調和した姿に時を刻み、あるべきようにある。
 そしてもう真っ黒に成ってしまった時には、モナリザは見られつくした。御用済み、画家の仕事はやっと終わったと言う事でしょう。

 そして、『あるべきものは必ず残る』と言えます。これは兄Aの言葉で、モーツァルトの譜面が一部、散逸してしまった事を嘆いている時に出た言葉です。確信に満ちた断定的な言葉でした。
 何故そう断定的な言い方が出来るかと言えば、残っているものでその全体が把握できるからでしょう。そして、
 「必要なものがもし失われたら、必ず誰かがつくる。」
 とも言いました。確かに! 人は全体性を獲得するために、欠落を補おうと動きます。それはもう、衝動のようなものです。
 もしモナリザのように、たくさんの要素が一枚に描き込まれたものが失われていたら、たぶん何人かの画家が何枚にも分けて、それを描いたろうと思います。そしてまた後に誰か天才が、それらのたくさんの絵を一枚に結晶させたようなものを描くかも知れません。そうしたら順番が反対になるだけです。またモナリザだって、もしかしたらそう言った絵の一枚だったのかも知れません。

 『ダ・ヴィンチ=コード』で、「聖書は人間が都合によって編纂した」と知って、ショックを受けた人もいたかも知れませんね。確かに「書いてあった方が良かった事」がなかったり、「書いていない方が良かった事」があったりするでしょう。しかし、必要な事は全て書かれてあり、邪魔なほど不要な事は一つも書かれていないと思います。私はクリスチャンではありませんが、少なくとも信仰者にとっては、間違いなくそうであろうと思われます。
 「邪魔な御言葉があって困る」と言う牧師の話も、「もう聖書はすべて解ったので、次の聖書が欲しい」と言う人の話も、あまり聞かないからです。


 さて、作品の劣化についてです。物には何世紀経ってもまるで新品同様で、それが作者と作品の力を感じさせるものもあれば、反対に風格とか味わいが出て来るものも多く、道具も手に馴染んで来る事があり、それなら時間との合作とも言えます。しかし絵画は明らかにどちらでもありません。劣化は作者の意図から離れる一方で、絵だけは保存の良い方が良いに決まっており、それぞれの絵の劣化の具合はもう、その絵の運命としか言いようがありません。
 でも、例えば『最後の晩餐』は、ケネスの時代から大幅に上から描き直されている事が解っていたようですが、美術家らが見て語って来た事は、ぜんぜん無駄ではないっ。上書きされたお陰で、かえってあの名画のどこが良いか、浮き彫りにされたじゃないかっ。
 これは満更、負け惜しみでもないと思います。そして、

 モナリザに限っては、絵の劣化で薄絹が一枚はがれたのではないか?
 最初は負け惜しみでそう言っていたのですが、だんだん本当のように思われてきました。「モナリザだけは時間との合作ではないか?」と。

 例えば眉です。この眉は製作当時に再現されたコンピューター映像を見た人が、もっともショックを受けた事の一つと思います。
 そこにはモナリザとはまったく違う絵が映し出されていました。まるで違う二枚の絵です。
 モナリザが本当に普通の絵、普通の女性に見えます。だから製作当初、この眉は(あったとしたら)作品を見過ごさせるための、大きな罠だったでしょう。眉があれば多くの人が、モナリザの前を素通りする事に成っていたでしょう。
 眉が消えたためにモナリザは、一種異様な雰囲気を放ち、誰もがすぐあの瞳に注目する事に成ったのです。驚いた事にこの場合、作品の劣化がヴェールを被せるのではなく、はがしてしまったのです。
 不思議な事です。
 描かなければ良かったはずのイボや、作品が完成してから適当にかぶせたら良さそうなヴェールなどは、実にくっきりと残っています。

 ところでダニエル・アラスは「モナリザには眉がなかった」と断言しています。 出 
 そしてヴァザーリのモナリザの眉の描写をほめる表現に対し、田中英道教授はレオナルド研究の巨峰『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(講談社学術文庫)P254で、「ヴァザーリがモナリザを見た事は一度もなかった。」と、これまた断言しておられます。
 田中教授の文章は非常な説得力があり、思わずヴァザーリの文章を読み返し、二度納得してしまいましたが、この辺の所は難しいですね。また議論を呼びそうです。

 また背景です。専門家から市井のファンまで、口を揃えて「あれは混沌(カオス)を描いたものだ。」と言います。私もそう思います。
 ところが背景は最初、澄んだ青空だった。これで絵全体の雰囲気がまったく変わってしまいました。
 「我々は今まで絵ではなく、表面に塗られたニスの黄ばみを見ていたのか ………」
 いえいえ、色調は変わっても、描いてある内容は同じです。私は一日かかってあの青空の背景を何と表現するか考えました。結論は、

『 幻想 』

 「混沌と幻想とでは、そう遠いものじゃないな。」少し安心して、しかし何か心に引っ掛かるものを感じていて、更に半日後、突然、気づきました。
 「幻想の薄絹をはいだら、……… あの幻想のほんの一つ下の階層は、混沌(カオス)なのか?!」と。
 モナリザの背景は確かに『混沌』です。ところが最初には『幻想』が描かれてあった。おそらく作品が劣化していなかったら、幻想を貫いて混沌を見る人は殆んどいなかったろうし、説明を聞いても納得できなかったでしょう。たぶん私などは、
 「何でもうんとえらい先生の中には、あの幻想的な背景を混沌だと言う人が多いんだって。」
 「ふうん、解るような ……… やっぱり解らないな。どの辺が混沌なんだろう?」
 なんて言っているのではないでしょうか。

 作品が劣化したおかげで、誰もが「あれは混沌だ。」と本質に迫るような認識が出来るように成っている。これは驚異的な事で、偶然扱いしたくありません。さりとてダ・ヴィンチが作為的にそうしたとは、いくら何でも考えにくい。
 モナリザはやはり時間、神との合作ではないか ……… 作為によってそれは出来ないが、やはりダ・ヴィンチは、神との合作が出来るような芸術家だったのかも知れません。
 そう思うと二枚に見えた絵がしだいに近づき、お互いを説明し合い、やがて確かに一枚に重なり始めるのでした。

 こうなると、500年後、600年後のモナリザも、見てみたく成りますね。(笑) だって、絵の具の一枚一枚が落ちてゆき、最後の一枚が剥がれ落ちた時には、完全なる神の姿が顕(あら)われるのですよ!
 ダ・ヴィンチはそう成った時、研究者全員が卒倒するのを楽しみにしていたのかも知れませんね。


 PS.06'05/20放映の『ダ・ヴィンチコード ミステリーSP』の録画を見返すと、大東文化大学の田辺清教授が、
 「モナリザの背景は理想的・幻想的・写実的」
 と表現しておられました。「なるほどなー」ですね。そこに憧れがあり、意識下の風景でもあり、それらを驚異の画力で写実的に描いてもいる ……… これが専門家の目なんだろうと思います。


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