絵の中心はどこだ?

 それはほんの小さな白い点から始まりました。
 そう。モナリザを見てひときわ不自然なのは、左目の横に打たれた白い点、『 イボ 』です。
 もしモナリザが肖像画の目的だけで書かれたのなら、イボは礼儀として消して置く、少なくとも目立たなくしておくべきです。描く事に意味はありません。( だから『 モナリザはある個人の単なる肖像画に過ぎない 』と言う説には、ここでも最初から無理があります。)
 モデルが見たら、怒るでしょうしね。質問されたらダ・ヴィンチは、「 これは制作上に必要な、目印の点です。もちろん後で消しておきます。」とでも言っていたのではないでしょうか。
 眉は最近の研究で消えた可能性が出てきましたが、イボは作品の劣化にもかかわらず、しっかり判別できます。とすればこの白い点は、製作のかなり初期の段階から打たれていたようです。おもしろいですね。しかし、
 「 これは何かの中心だな。」
 と私が思ったのは、類似の例があったからです。

 ダ・ヴィンチとともに、あの時代の美術の双璧を成したと言われるミケランジェロの、『 ( 石を持つ)ダビデ像 』です。( リンクはウィキペディアの項目です。)
 1980年ごろと記憶していますが、この作品の説明に、しきりに
 「 もし性器( おちんちん )がもう少し大きければ、理想的な男性像と言われています。」
 と言う説明を、実にあちこちで聞かされ、あまりに繰り返されるので少々うんざりした私は、

  「 どうしておちんちんの事ばかり言うのだろう?
  このおちんちんへのこだわりは、何なのだろう?
  おちんちんの小さいのが、どうしてそんなに気に成るのだろう?」

 と、まったく不思議でした。「 確かにあんまり大きなものがぶらぶらしていたら、鑑賞の邪魔に成るに違いない。」とは思いながも不思議で、一人で首を傾げておりました。

 しかしおそらくこれは、稲垣足穂の文章を意識していたのだと思います。
 足穂は言います。

 ところでギリシャ彫像に見る若うどの若々しい、可愛らしいペニス、あれはいったい何事でしょうか? 審美的要求にそれが生まれるとは常識です。それもあるけれど、しかしそればかりではない。あれはそこに、その後方なる丸くやわらかな臀部でんぶの存在を、云い換いいかえるとA感覚の所在を指示する標識でしょう。


 ( 『 A感覚とV感覚 』 新潮文庫の『 一千一秒物語 』の中に掲載されているものではP349 ルビは私の振ったもの。
   A感覚とは、この場合は『 存在感の中心を示唆している 』くらいに考えて良いと思います。)

 

それは『 標識 』だった ………

 ギリシャの彫像の何かの部分が、どんな事を意図しているかは、ギリシャ彫像が何を表現しようとしたかを考えたら解る筈です。それは魂( プシュケー )です。
 特におちんちんの小さかった事を言いたかった訳では、ない。決して、ないっ。
 それは、点で良かったのです。それならなるべく梅干のように丸っこくて小さい方が、目的にも適( かな )っている。( 注 1 )
 あなたもこれからギリシャの彫像やミケランジェロのダビデ像に接した時には是非そういう目で、おちんちんを見て欲しいと思います ……… )

 モナリザのイボも、ダビデ像やギリシャ彫像のおちんちんと同様の、( もうエエ!) サインではないか? と言うのは、実に自然な発想です。

 むしろあれはイボと言うよりも、影の部分に白い点を打ったように見えます。
 

「 ここは何かの中心だぞ。」

 そう言っているのではないか?
 こんな事は、絵画を研究している人達には、すぐに解る事でしょう。それをわざわざ打った。
 いや、専門家でも普通なら解らないような事を、この点で示しているのか?
 あからさまな誘いであるとともに、それ自体が謎である、打ち込まれた一点。

 「 ではとりあえず、絵の中心はどこだ。目は物を見ると、その中心を探すのかも知れない。」 
 まず、プリントアウトした紙をタテ半分に折ってみます。中心は同じくモナリザの左の瞳の少し左を通ります。
 ここで『 フォトショップ エレメント』を起動。これは確か2000年にスキャナーを買った時、「 ふろく 」として付いていたもの。使うたびに「 ちゃんとマスターしておこう。」と思いながら、ずっと放っとらかしにしておいたソフト。
 これでトリミング( 切り取り処理)をする時、中心に点が現れるようにすると、はっきりと解ります。これをプリントスクリーンする。
 そしてモナリザの「 顔だけ 」を見て四角に切り取り、タテの中心を見ると、必ず瞳の少し左に成ります。
 体裁よく切り抜こうと何度かやってみたのですが、必ず瞳から微かに左に成るのです。瞳の真上から切り取ると、どうしても右の余白が少し大きく感じられました。

 今こうやって並べて見てみると、中心がたったこれだけズレただけなのに、絵の右下などを見るとずいぶんズレたように感じ、「 こちらが何か間違えたのではないか?」と心配に成ってきます。

 顔全体の中心は、左の瞳の幽( かす)かに左です。
 これは絵のタテの中心でもあります。

 この両者は合致しています。

 ところが左肩に垂れた髪を見ていると、瞳を中心に切り取った方がしっくりするように見えます。
 髪を合わせた頭部のアウトライン全体の中心は、左の瞳です。
 左肩に垂れた髪を見て視線を顔に戻すと、目は顔の中心を探すので、少し何かがズラされた感じがする? しかし何のためにそんな事を? ………
 上の二枚の絵は、左が絵の縦の中心から、右の絵は瞳の中心から切り取ったものでもあります。
 ダ・ヴィンチは意図的に、絵の中心と顔の中心を、幽( かす )かにズラしたようです。

 良く見ているうちに、何となく違和感を感じ始め、「 あれ? どう成っているんだろう?」と思う。
 また「 モナリザは妙に体をねじっている。」とも言われていますが、これも後の「 モナリザは何を見ているか?」で紹介するように、見る部位と視野を計算に入れて、いちいち印象を変えているのかも知れません。そして視点を少し移すたびに中心を混乱させる罠かも知れません。無理な構図を自然に見せる工夫で、また見る側を惑乱しているのかも知れません ………

 これらの事も、「 モナリザの左右は切り取られたのではないか?」と言われて来たのが、どうやら原版のままらしいと判ったおかげで、考える事が出来る様に成りました。感謝です。( もっとも将来の研究で、またどう成るか判りませんが。)
 ご参考までに、全体の中心は次の通りです。155KBもあるので、クリックしたら出るようにしました。別ウインドで立ち上がります。

全体の中心 155KB

 ではあのイボは、いったい何の中心でしょう?



( 注 1 ) 私の知る限り、おちんちんを梅干に喩えた最初の人は、ムツゴロウさんでした。偉大な詩人であります ………

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