モナリザは、やはり笑っているではないか!
前ページで紹介した、布施英利先生の発見、凄かったですね。
しかしネット上で面白いページを見つけました。
思いの儘の記の中のレオナルド・ダ・ヴィンチ モナリザの謎です。
筆者である岡野亮介先生は画家、つまり自らも絵筆を執る方で、広範な知識と、何より画家ならではの絵画に対する慧眼と文章の表現力が相まって、たいへんに勉強になるページです。
モナリザに対して、すべて自らの着眼で話を進めておられるのですが、その目は微妙にして怜悧、目と口許にも的確で本質的な指摘をされ、驚かされるのですが、その中に布施先生の結論とはまったく逆の文章を見つけました。
ところが両者の語る所には、一致する部分が多いのです。でも結論は反対。これは、
「岡野先生は、口元の陰影で一気に微笑と成るように描いた『レオナルドの仕掛け』の事を言っているんだ。笑う寸前で止めた、様々なしるしの事を言っておられるんだ。」
と考えれば、簡単です。誤解のないように申し上げておくと、布施先生は笑っていないとは言っていない。前ページでも紹介したように、
いわば、無表情のパーツが組み合わさって「モナリザ」の顔ができあがったとき、微笑が生まれる。 (『モナリザの微笑み』布施英利 著(PHP新書)p60)
右の絵をご覧ください。普通のモナリザの顔写真です。前ページを読まず、このページからだけ読み始めた方は、ぜひ前ページ中ほどの絵(モナリザが笑っていない証拠)を見て比較して欲しいのですが、右の絵を、今度は口許の部分だけ指で隠して見てください。どうですか?
笑っているでしょう!
これはダ・ヴィンチが、隠しただけでは消えないほどの強い笑顔の印象を、鑑賞者の目に残しているからでしょう。
正直言って私も、笑っていないように見える時と、笑っているように見える時と半々なのですが、さて、
『これではモナリザは、笑っていないとは言えないのではないか?
やはり笑っているではないか!』
「う、うーん。」と、唸ってしまいました。実はこの実験は、布施先生の発見の大きさを賞賛するために見つけて来たもので、
「これではケネス・クラークもダニエル・アラスも、田中英道教授も岡本太郎さえ、発見出来ないはずだ。ただ解剖学をやっていたら気付くと言うものではないぞ。布施先生がいなければ、この発見は数世紀も先に持ち越されたであろう。どうだ、凄いだろう。」と言うつもりでいたのです。( ← お前が自慢せんでもヨイ。)
またしてもダ・ヴィンチの術中に陥ったか?
ダ・ヴィンチは、「笑っているかどうか」にさえ、単一の見方を許してくれないのか?
笑っている顔にも、笑っていない顔にも描いているのか?
いや、笑ってはいないし、笑っていない訳でもないように、否定の形でしか表現できないように描いたのか? きっとそうだ。
この世界はそう成っており、モナリザは『世界の表現』なのだから。
「それは『A』ではなく、『Aでないもの』でもない。背中律です。」
学生時代、よく聞いたフレーズですが、この表現が『Aであり、Aでないものでもある』と何か違いがあるのか、解りませんでした
相反する、そのどちらでもある事は、まだ理解できます。例えば、「人間は善でもあり、悪でもある。」と言われれば、つまり相対性を肯定してくれるなら、まだ納得できる。しかし、「人間は善でもないし、悪でもない。」と、どちらでもない事は、ちょっと理解出来ない。
ある事は認識できるが、ないものは認識できなsい。
これは、仕方のない事です。
そうして世界は、そのように成っている。固定性も絶対性もない。相対的に変易する。
この世界の何かに、少しでも絶対性、固定性があれば、「Aである」とか「Aでない」とか言えるのですが、善い人が悪い事をしたり、悪い人が善い事をしたりする。すると、「善い人でもなく、悪い人でもない」とは言えるけれども、善い人でもあり、悪い人でもある」とは、言えない。
「物質、たとえば鉄の性質は絶対ではないか。固いぞ。」
とおっしゃるかも知れませんが、屁理屈を垂れますと、鉄も他の多くの金属の中で、相対的な鉄の位置がある訳で、先日広島大学で開発された『鉄よりも強い、安価で透明なプラスチック』などが出てくると、鉄も立場(?)を失うわけです。(笑)
特に、人間が少しでも絡む事では、もう徹底的にそうです。
背中律の否定、「善でもない。悪でもない。」と言われて始めて、それを超越して世界、意識の全体性をイメージ出来る ………
ともかくモナリザは、絵画の表現としては、確かに笑っている。
解剖学的な表情筋は、まったく笑っていない。完全に弛緩している。
レオナルドは、「神の筆致」と賞賛される絵画技術の長として、モナリザを笑わせた。
また解剖学の創始者的な人物として、笑っていないモナリザを描いた。
どちらも確実に意識して、そう描いた。
これは、間違いない事です。