モナリザは笑っていなかった!

 右の絵はキュビスムという画法の創始者の一人で、その代表的な画家、ピカソの描いた 『 マリー・テレーズ・ウォルテル 』 の顔写真ですが、………
 姪Aがピカソを見て怒った事があります。
  「 なんであんな訳のワカラン物を描くの? あれのどこがいいの? 」
 私は少々いら立ちながら、
  「 解らんものの悪口を言うな。恥を掻くぞ。 」 と返しました。 ( ← これは年長者の、経験から来る忠告。 )
 なぜいら立ったかと言うと、私にだって解らなかったからです。しかし、そんな事がバレたら沽券コケンに関わります。とっさに、
  「 エジプトの絵画があんな描き方をする。体は前を向いているが、顔は横を向いているだろう? 」 と答ました。
 しかしもちろんこれは、私の考えではありません。かのシュペングラーが 『 西洋の没落 』 の中で語っていた事を思い出して言ったのです。
 では、エジプトの絵画はどうしてそんな描き方をするのでしょう? ………
 確かシュペングラーは 「 永遠を表現するため 」 と言っていたような気がする ………
 なるほど。エジプトと言えばピラミッドにミイラ。永遠に対して強い興味を持っていたようです。現実のこの世界に永遠を持ち込もうと、本気に成っていたようです。絵画でもそれをした?

 しかし何故、この描き方が永遠を表現しているのか? 確か 『 西洋の没落 』 の最初の方に書いてあった。だって、最初しか読んでいない筈だから。 ( 笑 )  と思って捜してみると、醜く拾い読みをしたらしく、本の全般にわたって傍線や書き込みがあり、もはやどこに書いてあったか知れない。 ( あれは精読せんとイカン本なのですけどねえ。 )
  「 まっ、いいか。 」
 と思って数年後、私は 『 モナリザの謎と秘密について 』 に取り組み始め、書き終わってしばらくして、
  『 モナリザの微笑み 』 布施英利 著 ( PHP新書 )
 を読み、腰を抜かしたと言う訳です。

  「 こーれは凄い! これはケネス・クラーク、田中英道教授以来の大発見と違うか? 」 と私は興奮しました。いや、こと 『 モナリザ 』 に関しては、おそらく空前にして絶後の大発見。モナリザの中のキュビスムこそ、謎の中核と言えるでしょう。
 そうなのです。 ……… 背景の謎を解く、モデルの謎を解く、背後に描かれたキリストの謎を解く、全体の構図の謎を解く ……… その一つだけでも、それぞれは全てと関連しており、解けた時にはモナリザの全てに触れています。これが 『 有機体 』 の不思議です。しかし、その謎の中核こそ、今まですべての偉大な研究者、美術史家も、気づく事さえ出来なかった、モナリザの中のキュビズム。いや、亜キュビズムと言うべきか ………

 これはたった今、ウィキペディアで知った事なのですが、凄いはずです。布施先生は東京芸大在学中に、すでに 『 脳の中の美術館 』 ( 筑摩書房 ) で出版界にデビューされ、卒業後、東大で養老孟司博士の研究所に勤務しておられた。
 養老孟司? そう、布施先生が専攻されたのは、 『 美術解剖学 』 なのです。
 おそらく布施先生は、美がどうやって生まれてくるか、具体的に知りたかったのかも知れません。
 そしてダ・ヴィンチは解剖学の創始者的な存在でもあります。

 素人考えでは、美術を専攻するにしても、特に解剖学など要りません。しかしもし、 「 必要は発明の母である 」 という言葉がここでも当てはまるとしたら、ダ・ヴィンチは相当な必要のために解剖を始めた ……… 布施先生によれば、ダ・ヴィンチは解剖学を始めてから、はっきりと皮膚の下の筋肉を描くように成ったそうです。 ( 『 それは1490年を過ぎた頃 』 と言う事です。-同著p46- )

 例えば 「 漫画入門 」 のような本には、しばしば最初の方に、顔と体の骨格と筋肉の図が載っています。マンガを描くにしても、 「 まず最初に、これは目に焼き付けておけ。 」 と言う事なのでしょう。これはもちろん、マンガを馬鹿にして言っている訳ではなく、マンガのような輪郭線だけの白黒の線画でも、それははっきり表われる。アウトラインだけでなく、目鼻口の線の抑揚、さまざまな角度から見た時の各部の配置、簡略化した時のニュアンス、画家にとって解剖学は、学んだ方がずっと有利なものなのでしょう。そう言えば、手塚治虫は医師でもありました。 ( アトムやお茶の水博士の骨格がどうなっているかは、知りませんが。 )
 布施先生も、

  「 解剖学をやると、如実に顔の下の筋肉を実感できるように成る。絵を見ても、はっきりと判るように成る。 」
 と言う意味の事を語っておられます。
 そしてその目でモナリザを見ると ……… 驚愕!

 モナリザは笑っていなかった!
 目や口元周辺の筋肉が、一切笑っていない!
 そして口角周辺の陰影だけで、笑顔を作っている!
 布施先生の発見がこれだけだったとしても、美術史上の一大エポックだったでしょう。

 右の絵をご覧下さい。私がほんの2クリックで、唇の両端だけをエアブラシでぼかした図です。たったこれだけで、モナリザから微笑が消えました!
 笑っているとも言えない唇の両脇に、口角が少し上がったような陰影をつけ、たったそれだけで、誰がどう見ても、顔全体が笑っているようにしか見えないような印象を与えている!
 何という画家としての力量!
 これには布施先生の本から、前もって答えを教えてもらっている私も、驚きました。
  ( 難を言えば、右の絵は左の口角の 「 くっ 」 と上がった部分が見えなく成っている事です。 )

 私が 『 モナリザは何を見ているか? 』 で 「 目が引っ張られる 」 と表現した、部分の全体への広範な影響。モナリザはその最も驚異的な例でしょう。もはや魔法使いを相手にしているような畏しさが込み上げてきます。
 いつも通り蛇足的な説明をしますと、目も口も、幽かに笑っているようにも見える。いや、ダ・ヴィンチは、目も口も、笑う寸前で止めている。笑った目や口としては描いていない。
 注目すべきは、口角の陰影を消すと、目は笑みにも哀しみにも見える、更に目の周りの陰影を消すと、布施先生の指摘どおり、ほとんど無表情ではないかと思われる事です。 ( 本来の絵では、右目が老いた諦めの笑みに見え、左目が青春のおごりに満ちた不敵の笑みに見えるにも関わらず、です。 )
 それが口角の陰影だけで、雪崩を打ったように、一気に顔全体が微笑と認識されるように、描いている。
 何故そんなふうに見えるのでしょうね? 本当に不思議です。これでは謎が解けたのか、新しく出来たのか、分かりません。 ( 笑 )  でも、本当に面白いですね。
 しかし一応の説明は、しておきましょう。

 笑いはあらゆる感情の表明である。
 おそらくは、この事がカギです。笑いは何かの感情が、あふれた時に現れる。怒り、悲しみ、喜び、強い感情が平静を打ち破った時、意識を正常の範囲に保つため、ガス抜きのように現れるのが、笑いという不思議な現象の ( あくまで ) 一面です。微笑はそれを押し殺そうとした時の表情でもある。それで、ほんの少し笑顔のしるしをつけただけで、 ( いったい何の笑いか判らないにしても、 ) 顔全体が笑顔に成る。そして、すべての表情を描き込もうとすれば、微笑で包み込まねば成らなかった。いや、すべての感情を描き込んだら、全体を微笑で統一せざるを得ない ………

 いま私の頭の中を去来しているのは、
  「 アーラヤ識は無覆無記 」 ( 心の本質は本来、善でも悪でもなく、何ものにも覆われたり妨げたりしていない。 ) とか、
  「 一切諸法は自性清浄 」 ( すべての存在には本来、汚れるとか清まるとか、善いとか悪いなどの絶対的、固定的な性質はない。ただそのまんま、ある。 ) などの言葉です。
 私もだんだんアブナイ方向に神がかって来ましたね。 ( 笑 )
 人間 ( 私 ) は本来、笑っている訳でも怒っている訳でもない。 「 私 」 が辛い目にあったら悲しみ、楽しい目にあったら喜ぶ。そもそもは完全にフラットです。本来無表情の目も口も、陰影に遭って笑顔や泣き顔に成る。
 レオナルドは人間の本質をそのまま描こうとしたから、表情筋からいかなる緊張も排除した?
 いやいや、いくら何でもそれは考えすぎだ!
 けど、モナリザにまた一つ、面白い 「 考え事 」 が増えましたね。

 かつて私は、 「 本当の謎は、解かれるたびに新しく、より大きな謎へと扉を開く。 」 と大ミエを切った事がありますが、えらそうな事を言った報いが、いま布施先生の発見によって返って来たようです。 ( 笑 )  布施先生は、まさにそう言った謎の解き方をされたからです。
 どうやらモナリザこそは、本当の謎です。これも私には、 「 モナリザは世界をそのまま写した絵だからだ。 」 と思えてならないのです。
 ここで布施先生の言葉を引用したいと思います。

いわば、無表情のパーツが組み合わさって 「 モナリザ 」 の顔ができあがったとき、微笑が生まれる。  ( 同著 p60 )

   しかし 「 レオナルドが最期まで加筆し続けたのは口許の部分だった。 」 と言う逸話に、また一つ納得できる要素が増えました。
 布施先生の発見によれば、レオナルドは絵全体への最終的な微調整をしていた事に成るからです。





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