モナリザの中の亜キュビスム
先ほどもご紹介した本、『「モナリザ」の微笑み』 布施英利(ふせ ひでと)PHP研究所 によれば、
モナリザの目鼻口は、それぞれ全然別の角度から見たものだった。
顔自体も、斜めから見た顔と正面から見た顔を合成している。
これこそ大発見の中核! あぁ、誰もがモナリザを見ると「何か奇妙な感じがする」訳です! この発見は上の例と共に、『美術解剖学』に徹底して習熟した目のみが見い出し得た、一つの奇跡と思われます。
と言われても、納得のしようがないでしょうが、実はこの本は、『Google Scholar』から、かなり読ませてくれていたのですが、読めなくなっていますね ………
ピカソらに創始されたと言う『キュビスム』の話なのですが、さて、エジプトの絵画にせよピカソにせよ、「何故あのような描き方をするか」ですね。
まず、一つのものを描こうとすれば、画家はたちまちそれが一つではない事に気づくからだと思います。色々なものが見えてしまう。
それらは相反し調和し比和し相乗し合い、しかも別々のものではない。画家はそれをそのまま描かねばならない ………
あなたは誰かの事を思う時、特にいま目の前にいない、愛しい人の事を思う時、どんなふうに思い出すでしょう?
笑っている時の顔、考え込んでいる時の顔、怒っている時、悲しそうにしている時、ぼーっとしている時の顔、あるいは走っている姿、それぞれの正面からの顔、横顔、また寝顔や後ろ姿 ……… 全部、思い出すでしょう? 一枚の写真を見ているだけで、色々に思い出します。
ある人を思い出す時には、ある時のあるシーンを思い出すのですが、無意識のアルバムの中にあるその人のフォルダの中の、たくさんのたくさんの写真、あらゆる角度から見たさまざまな姿を統合して、ひとりの人間の概念が出来ています。
そもそも人間の認識や思考の仕方というものは、この通りなのだと思います。
一つの対象を見た時、それが切り離され個別化された一つのものとは見ない。それは意識の仕事です。たとえ英単語のようなごく小さな断片でも、必ず脳の全体と関連させながら、(これは私の説、いや、実は東洋の古い信仰なのですが、八種の)元型の一部として対象を意識に提出する。
それで言語連想法とかで、強い感情をともなった観念群( コンプレックス )を探す事ができたり、似たものの集団が「一つのイデアから派生したものではないか」と感じたり、あるいは人間にとって『象徴』が存在するのでしょう。
ピカソの絵を前にして、「精神病だよ」と悪態をつくのも見当はずれな事ではありません。例えば分裂病、近年『統合失調症』と言う素晴らしい名前が付けられましたが、まさに統合が失調している。「分裂」と言って狂気に線引きをして「治らない病気、正常ではない。」と隔絶するのではなく、「実際、治るじゃないか。」と言う事実から、意識はむしろ様々な狂気の上に成り立っている。脈絡なく、雑然としたものを統合して、意識は成り立っていると教えてくれる、素晴らしい命名です。
そして絵画のキュビスムの場合、『未統合』の認識をそのまま描いたものであるとともに、それは統合された意識の側から見た心の内部と言えるかも知れません。
確か高校の時でした。『概念』とは何だろう? と辞書を引いた事があります。すると、
多くの観念の中から共通した要素を抜き出し、それを総合して生み出した新しい普遍的な観念。 出
とありました。今でも覚えている所を見ると、よほど感心したのでしょう。 注
「そうか、概念とは、たくさんの観念から成り立っているのか。たくさんの観念から、自分で中心を見つけて、練り上げたものなのか。」
と、巨大な地平が開けたように感じたものです。つまり、「これが概念と言うものの、概念か。」と。(笑)
よく考えたら、画家の描く一枚の絵とは、まさにそのようなものではないでしょうか?
それで少年、ダニエル・アラスは、わずか14歳の時、ラファエロを前にして、
「絵は物語を語るだけではなくて、物語を思考しているんだ!」
と感動した。( 出1 )
その天才には、驚嘆せざるを得ません。元形やイメージには、必ず
いや、運命と言った方が良いかも知れません。
例えばピカソの場合、その破天荒な性格(特に女性に対する)は、その絵と同様、確かに何かを破壊しています。統合される前を、統合したら失われる未統合のものを、描いています。それは一種の「どぎつさ」であり、熱であり、感情や感覚に対しての直接的な官能でしょう。
そうしてそれを、概念として意識が統合する前の姿を、描き出しています。
しかしモナリザは厳密には、キュビスムとは言えないかも知れません。同時に写実的でもある。キュビスムと写実が不二一体と成っている。画家の目の中に、キュビスムが湧出した瞬間を捉え、それをそのまま描き付けてある ……… からです。これはキュビスムより、はるかに困難な事かも知れません。日本人得意の「薄明の世界」。賢治的な「幻想第四次元」。意識と無意識のどちらにも属さず、その境界を凝視してブレない、驚異の精神力!
いや、レオナルド以前にも、確かにキュビスムの萌芽はありました。『ヴィーナスの誕生』が良い例として、名画の中には左右の視線が一致していない例の方が多いでしょう。
しかし唇ひとつ取っても、あれほど見事にこれから展開するキュビスムの全貌を示唆している例は、おそらくありません。これらの事は前述の布施准教授の本『「モナリザ」の微笑み』 PHP新書 P18を読んで驚いて頂きたいと思います。
弥勒像やスフィンクスと並ぶ古典的微笑( アルカイックスマイル )から、しばしば中国の水墨画にたとえられる背景、遠近法の限界かも知れない空気(媒体)を使った方法、そして前衛芸術の最先端まで、また印象派の創始者とも呼ばれるレオナルドの代表作『モナリザ』には、布施英利教授の発見によるとピカソだけでなく、セザンヌ、レンブラント、ウォーホル ……… が表現しようとした世界が、確かに見て取れるのです。まさに絵画の
『アルファからオメガまで』
が描き込まれています。ダ・ヴィンチはモナリザで、『絵画で表現できるすべての可能性』を一枚に凝縮した結果、絵画の歴史をなぞる事に成ったようです。
モナリザの背後に描かれたイエスが「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録 22章13節)と言ったように。
そうしたら、稚拙な表現と言われるモナリザの左手、「自然には輪郭線はない。」と繰り返したダ・ヴィンチが、スフマートどころかホワイトを輪郭線としてそのまま残し、「未完成ではないか?」と言われている左手。これは、謎とされておりまが、(だって、他であれほど凝りまくって、左手だけがそれほど未完成なんて、不自然じゃないですか。)あの左手は、未完成ではなかったのかも知れません。
例えばラスコーやアルタミラ洞窟の壁画を見ていると、「線画には線画で表現しようとした世界、意識の地平があるんだ。」としか思えません。人間の意識には、線画で構成された生き生きした世界がある。人は物を見たら、まず線画で表現してしまう。この世界も、はずせない。
「線画の世界も組み込むために、ホワイトの輪郭線を残したのではないか?」と深読みする事も出来ます。
(そうすると左手の位置が絵の最下部という事に成り、左手を見た目は、左腕と、タスキがけに成ったヴェールの線から湖へ、そして割れた山から天上へと向かう事に成らないでしょうか? これは『ヨハネ』の、いかにも不自然な腕の曲線と同です。)
しかし持って回った事を言っても、実は左手は、単なる未完成だったのかも知れませんよ。(笑)
ダ・ヴィンチの作品は「ほとんどが未完成」と言われておりますし。
でもやはり「作品と言うのは作者から離れて一人歩きするもの」で、神や歴史との合作、それだから尊い。それが描けるから、天才だと思います。つまり、「絵画の表現のあらん限りを一枚に描き込んでいるのだから、線画の世界も組み込んだのではないか?」と考えても良い、と言う訳です。私にとってはこの考えは、捨てがたいのです。
そうすると、ほとんどこれは最終結論的な事で、背景を煮詰めていって書くつもりでいた事なのですが、モナリザの亜キュビスムを語るには、どうしても避けて通れないので少し触れておきます。
ダニエル・アラスはモナリザについて、「この絵の主題は時間なのです。」( 出2 )と語り、ルーブルは「プラトン的な時間」と更に絞りました。(リンクを貼っていたのですが、ページごと変更している! あの名文を惜しげもなく消すとは、さすがルーブル。保存しときゃ良かった。残念! ……… しかしあの文章を偶然読めた私は、非常にラッキーだった事に成ります。)
プラトン的な時間とは、『永遠の似姿としての瞬間が継起する、この現実世界。永遠の断片としての、永遠が内包されたこの一瞬。』で、すべてを所有している永遠が、その姿の一つ一つを順ぐりに、瞬間ごとに映し出すのが現実世界と言う事なのですが、それならば原初の古代から未来の最後までを映しだして、やっと全体が見えて来る事に成る。絵画でそれしたのが、モナリザ。何故そんな事をしたかというと、「絵画で表現できる全てを一枚に凝縮した結果」そう成った。と思います。
そして何故、絵画で表現できる全てが凝縮されたかと言うと、「世界のすべてを描き込んだ結果」だと思います。
(『プラトン的な時間』については、ぜひ田之頭 一知教授のこのPDF、「プラトン『ティマイオス』における時間の概念」をお読みください。「これをタダ読みさせてくれるとはっ」と言う、感謝感激の論文です。)
また、他にも色々な論文を読ませてくれる『 ありがたいページ 』もご紹介しておきます。
( 出1 )『モナリザの秘密』吉田典子訳 白水社 p125や197
( 出2 )同著 p25"