すべては水の中の

 いかがでしたか? 私にはなかなか豊穣な時間でした。またこの方法は、絵を理解するのに良い一手かも知れません。と言うのも、画家は必ず絵の中で遊んだ事がある筈だからです。
 けれども少し統合失調症的な経験でしたね。(笑) そう、危険な経験でもあります。能動的思考法は、「絵の中」など限定されたテーマ、つまり意識の制御下のもとで、意識を水面下に遊ばせると言う治療法なのでしょう。( 治療と言うからには、水の中から戻って来る練習のはずだからです。)
 そして私が驚いた事には前出の本(出1)でアラスが、

 「 二十世紀半ばのもっともすぐれた美術史学者のひとりであるケネス・クラークでさえ、ある論文のなかで、それも若書きではなく円熟期のものなのですが、《 モナリザ 》は海底の女神のように見えると書いている 」( p18 )

 と紹介しているのです。これは超一級の専門家の目が、複数の楕円を波紋として拾った事もあるでしょう。モナリザの視線に水の揺らぎを見た事もあるでしょう。しかし私は、
   モナリザ=ウンディーネ(水の精) 説
 と言うのを持っており、『 海底の女神 』と言う表現には思わず息を呑みました。
 舟人を歌声で誘い、水に引き込むという人魚。
 人の明瞭な意識を魅了して水、蒙昧な無意識の中に引き込んでしまう妖精。
 これは何一つこちらに働きかけず、ただ引き込むモナリザそのものです。
 しかも湖ではなく海? 絵には湖と川が描いてあるのに?
 この辺がおそらく、「 二十世紀半ばのもっともすぐれた美術史学者のひとり 」と呼ばれる天才の、極めて正確な感覚の所産と思われます。と言うのも湖は清涼な淡水です。いきものが死んだり生まれたりする、暖かく赤黒く甘く生臭い、あの暗がりは、まこと『 海底 』と呼ばれるに、ふさわしい ………

 絵をよく見ると、左側にも同じ高さに水面のようなものが見えます。
 この線も、目立たぬように描かれています。背景のトリックの一つと思われます。
 ( 下の絵は広すぎて右が切れる事があるようですが、その場合ウインドを右にずらして全体をご覧ください。)


 絵の右端から左端まで、少し湾曲しながら、一本の水平線があります。豊かに、圧倒的な量の水を湛(たた)えています。これを水平線と見れば、背景はまた別の風景になるのです。
 いや、絵を眺め回してゆき、視野をズームアウトして背景の全体を把握すると、別の風景に成るように考えて描かれていると思われます。

 ダ・ヴィンチは他の作品でもこのような手法を使います。例えば『 最後の晩餐 』です。鑑賞者は当然、まず最初に中心のイエスを見ます。イエスが言葉を発した瞬間です。この時には十二使徒に動きはない筈です。
 次に鑑賞者は何故かしらん、イエスの左側から見始めます。これは人間の癖か? それとも私と私の調べた限りの人だけか? 左の人物のほうがアクションが大きいからか? とにかくイエスの左から見始めるのです。驚いて大きく左に傾く者を最初に、その傾きを受け止め、中央に押し返す姿勢の左端の人々は、「 そんな馬鹿な!」と叫んでいます。左端まで行った視線は速度を上げて中央に戻り、次にイエスの右側から見始めます。イエスの右側の三人は、「 それは本当ですか? 誰の事ですか? 私じゃないですよね?」と言っています。次に右端まで視線をやると仲間内で、「 誰の事だ? あいつか? こいつか?」と囁き合っています。つまりこの絵は、

 「 この中に一人、私を裏切る者がいる。」
 「 何ですって! そんな馬鹿な! 」
 「 あり得ない事です!」
 「 私じゃないですよね?」
 「 誰だろう、そいつは?」

 と言う5コマ漫画を、1コマでやってしまっているのです。
 この構図はダ・ヴィンチが、「 絵に相対した人が見る順番を相当はっきり想定して描く場合がある 」と言う良い証拠でもあります。
 そして十二使徒で『 波 』を作っている。波はレオナルドが深く研究した水の性質の大きな一つです。これが絵をさらに衝撃的なものにしている。
 この事は巨匠ケネス・クラークから天才ダニエル・アラス、我らが齋藤孝先生や田中英道教授さえ、多少以上の感動を隠し切れず言及されている事ですが、これはまた別の物語。話をもとに戻しましょう。

 「 そもそもあの湖は、海ではないか?」 そんな気がしてきました。
 『 山上の海 』? 何と言う発想、何と言うイメージ! 
 しかしこれは私の気紛れな思いつきとも限りません。ダ・ヴィンチは、山に貝の化石がある事を『 手記 』で、かなり執念深く論じているからです。と言うのも、当時はノアの洪水でこれを説明する人々があり、これに対してダ・ヴィンチは怒っていた。神に対する『 媚(こび) 』への嫌悪でしょう。彼には『 問題に対する誠意 』があった。それが大切だったのでしょう。
 そうすると「 海と山 」( 母性と父性 )の対比で、ここでも『 相反したもの 』のテーマが出てくる事に成ります。
 沖に湧き立つ雲、水平線は湾曲している。この丸みは、日本人の感覚では海です。琵琶湖の水平線はどうだったでしょうか? ちょっと思い出せません。遠近法で湖面を湾曲させたのかも知れません。
 いや、そもそも遠くに見える湖面が、あのように湾曲して見えるものでしょうか? 湖面が見えると言うのなら、湖は目線より下の筈ですし、あれっ? どうなっているのだろう?

 また水は、雨が山に注ぎ川となり、海へ注ぎ雲となってまた雨と成る事から『 循環 』を象徴するものです。私がこの事を習ったのは小学二年の時と覚えていますが、いまだに覚えている所を見ると、よほど感動したのでしょう。意識は水と成り、世界をめぐったのです。
 「 レオナルドは水に循環の意味を込めている 」とは定説的な考えなのですが、(出2)特にこの絵には雲・山・川・海、全てが描かれていることから、『 循環 』は、非常に明確なメッセージです。
 いや、もう『 回転 』と言った方が良いかも知れません。しかし、………

 しかしまったく「 山上の海 」とは、何と言う発想でしょう。もしそうなら、
 『 世界の逆流・大循環 』です。

 そしてあの楕円が波紋として捉えられる事を計算に入れて描かれたものならば、驚くべき事に、
 モナリザも背景も、あの絵の全ては、水の中にある事に成ります!
 この絵は水面下、意識下の風景なのです!
 我々が相対しているモナリザは、ちょうど水鏡のような、ただの平面であるにも関わらず、立体的で動的な一つの世界、鑑賞者自身の内的宇宙への窓口ではないか? ダ・ヴィンチは意識して、そう描いたのではないか?

 よく覗いたら、ダ・ヴィンチが見た意識下の風景すべてが見えてくる。
 私にはやはりそう思われるのです。

 (ちなみにここで紹介した『ウンディーネ』と言うのはフーケー作のドイツロマン派の恋愛小説(人と精霊との ………) を指して書いております。いま検索すると最近では同名のアニメまであるようなので、一応お断りしておきます。 アマゾンのリンク。 こーれ読んだら泣くぞう。

 それにしても、「背景全体の構造に触れる前に、少しだけ水に触れよう。」と思っていて、ずぶぬれです。
 学生時代、教授がちょっと寂しそうな顔をして、「どうして君は形式論理学と言うものを気にせずに、論文を書く事が出来るのでしょう。」と言った事があります。私は胸を張って、「ショウペンハウエルは、『 すぐれた著作は必ず有機的な形式を取る 』と言っております。」と元気に答えなくて、良かった ……… そんな事いうともう、口きいてくれなく成りますからね。(笑)
 しかしモナリザこそはその通りで、描かれている部分で全体に関連していないものはなく、重々無尽、個別が他を支えており、また他に支えられていない個別もない。全体が解らなければ部分に何の意味もないように見え、部分を手がかりに全体を把握してゆくと、全てが少しずつ意味を持ち始め、精彩を放ち、やがて闇が朝日に照らされた時のように、別次元の感動を持ってまったく違った世界が現れる ……… これがケネス・クラークの言う『 有機体 』と言うものなのでしょうか。 
 だからモナリザに限っては、あながち私の責任だけと言う訳でもありますまい。ショウペンハウエルは続けて、
 『 偉大な書物は世界をそのまま写したものだからである。』( ← 明らかに自分の著作の事を言っている。 -笑- )

 さて、時間ですね。アラスは何故「 この絵の本質は時間だ 」などと言ったのでしょう? アラスが「 ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず 」と言う『 方丈記 』のフレーズを知っていたとは思えませんが、とにかく水の流れは時間の流れそっくりに感じられます。しかしそもそも、時間とは何でしょうか?
 『 存在と時間 』と言う本がありますが、ずいぶんムツカシイ本で、どれくらい難しいかと言うと、私は高校時代、上巻を読み、中巻をとばしている事に気づかず下巻を読み、思わず「ワカラン! 」と言ったほど、ムツカシイのです。(泣)
 次はこの『 時間とは何か? 』を考えて見よう。
 と、思いましたが、これも手強いので工事中とさせていただきます。まあ、必要な穴くらいは掘りますので、どうかご容赦を。


   追伸

 君が手にふるる水は過ぎし水の最後のものにして、来るべき水の最初のものである。現在と言う時もまたかくのごとし。
 [Tr. 34 r.]

 と言うダ・ヴィンチの言葉を見つけました。出典は『 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 』(上)岩波文庫 p77 です。小題には『 時間と無 』とあります。
 手のひらのうちに流れる水が、愛おしい現在。いまのこの時。
 日本人なら誰でも、『 方丈記 』の冒頭、「 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし ……… 」を思い出すんじゃないでしょうか。出家者である鴨長明は、『 刹那滅 』の概念を思い起こしていた事でしょう。いや、驚きましたね。


(出1)『 モナリザの秘密 』ダニエル・アラス著 ( 白水社 )
(出2)『 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 』岩波文庫 P89 など。


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