絵の中に入る

 ユング派の治療法に『 能動的思考法 』と言うのがあります。これは例えば絵を見て、その中に入って行くのです。そうすると、どんな事が起こるでしょう? あの川に舟を浮かべて、湖までさかのぼれるでしょうか? 一緒に舟に乗るのは、友達? お母さん? その次には、どんな事が起こりますか?
 我々は子供の頃、自然にこのような絵の見方をしていたように思います。そして大人に成ってからも、知らずにそんな想像をしているのかも知れません。ちょっと、実験してみましょう。我々が『 モナリザ 』の中へ、入ってみるのです。


 私は絵、左手の蛇行した道を通って川へと降りて行く。私の姿は豆粒のような小さな人影と成って描かれており、実際の私がそれを見ている。すると私の横に、ごく自然に、もう一人の人影が寄り添っている。モナリザです。彼女は私の右を歩いている。エスコートしてくれるらしい。どちらも何も言わない。ただ私は、この先の事を知らないが、彼女は知っている。私は何か聞こうとしたが、黙ってしまう ………
 水辺に着いて舟に乗る時には、いつの間にか一人に成っており、私はそんな事にも気付かずに水面を滑り出す。
 案外簡単に流れをさかのぼれる。周囲に目をやる。岩山だ。私はそこにも立ってみる。峻烈! ここはシナイ山か? 美しいかも知れないが、人間のいるべき場所じゃない。すぐ舟に意識を戻す。すると遠くの正面に、滝だ! やはり幅広い滝だ。音は聞こえない。深い振動だけが伝わって来る。右を見るともう一筋、湖から流れる川がある。そこには、橋! 私は何を聞こうとしたか思い出していた。そしてその質問の答えが口をついて出た。
 「 あの人は、湖から来たのだ。」

 あの橋を渡れば、道は険しそうだが遠く右上にある湖にも徒歩で行けるようだ。
 「 あの人は、あの橋を渡って来たのか。」
 橋のたもとに舟をつけよう。そこから上陸しよう。いや、せっかくだから橋の上からの景色も眺めてみたい ……… 私はオールをかえして進路を右に取る。ところがいつの間にか流れが変わっており、滝壺へと吸い寄せられている。少しあわてて逃げようとしたが、抗(あらが)うのは無駄だった。私が滝壺の底を見たかったからだ。流れに任せて漕ぐのをやめる。

 それは世界に開いた口だった。途方もない量の水が、いや、世界の全てが刹那ごとに呑み込まれている。時間が現在の全てを過去へと呑み込んでゆくように。虚無への恐怖で私は舟の両縁(へり)を両手でつかみ、巨大な水晶のような断崖を滑り落ちた。眼下の闇へ、垂直に!

 落ちながら見た世界は、意外! 巨大な暗い渦だった! 土砂と共に様々なものが回転しながら渦に飲み込まれてゆく。家具、調度品はもちろん、雑貨も、大きな建物もまるごと。言わばすべての想いが、小さなものは木の葉のように、大きなものはのたうちながら、奈落へと飲み込まれてゆく。「いま闇の中心へ、私は落ちている!」これからどうなるのだろうか? 死が救いにさえ見えた。それが目の前にあるのに。

 気がつくと、音も光も重力もなかった。その闇は赤黒く見え、生き物の暖かさを思わせるような、心地よい甘い生臭さがあった。ここはまるで水の中のようだ。その中で、自分がどこにいるか想い出していた。ここは、かつていた所だからだ。そして、いつか行く所だからだ。ここは、ウロボロスの内側 ……… 心は眠りのように落ち着いてゆく ………

 そして私は絵の前に立っていた。モナリザは少し表情を変えて微笑んでいた。絵の表面にいくつかの波紋が起こり、消えた。


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