モナリザの三つの橋
( この絵のテーマは、時間 )

 

 イボもですが、モナリザを見てまず目を引かれるのは、 「 唯一の建造物 」 と呼ばれる 『 橋 』です。
 何故わざわざ 「 唯一の建造物 」 などと呼ばれるかは、言うまでもありません。
  「 いかにも取ってつけたような 」
 印象を与えるからです。橋は原初を思わせる荒涼とした風景には不自然で、まったく似合いません。まるで小鳥のように飛んで来て、モナリザの左肩に止まったようです。しかしもう一つ、理由がありました。
 この橋は 『 建造物 』 にはとても見えないからです。
 良くご覧ください。アーチの一つひとつが、ぜんぶ違う形をしています。
 おまけに上面も直線とは言いがたく、幅も一定ではないようです。こんないい加減な橋はありません。
 贔屓 ( ヒイキ ) 目に見ても 『 廃墟 』 です。
 しかも良好な状態で、無限に近い時間だけに風化され、侵食されたように歪 ( ゆが ) んでいるのです。
 この橋を何と呼ぶべきか ……… 考えた挙句、
   虚妄の幻想
 と言う言葉が浮かびました。これは橋ではなく、橋のイメージ図です。完全なる虚妄の中の幻想、暑さに眩んだ目に映る陽炎 ( かげろう ) 、空想上の水底のオブジェです。現実感と言うものが、まるでありません。純粋に、本来的な意味での 『 象徴 』 です。あれは橋ではありません。何かの都合で橋の形に見えるだけの、目の迷いです。
 そして夢の中の象徴のように、絵全体のカギと成っているようです。

 もう一度上の絵をご覧下さい。最初は橋だけを切り取ろうとしたのですが、このフレーミング自体が絵に成っており、これだけで風景画としても通用するように思え、削除する事が出来なかったのです。ところがです。こうやってエクスプローラに貼り付けてみると、
 手前にもう、崩れてしまった橋があるではないですか! いや、これは自然の地形で、かつて私は 「 橋なんかなくても、ここを渡って行けば良いじゃないか。 」 くらいに思っていたのです。しかし私にはもはや、これは 『 崩れてしまった橋 』 以外には、見る事は出来ません。だからこれを、 『 過去の橋 』、いま架かっている橋を 『 現在の橋 』 と呼びましょう。

 もう少しオソロシイ事を言うと、
 この橋は生き物で、下から勝手に生えて来たのです!
 この橋に関しては、さまざまな議論があるでしょうが、この説はまず、初めてと思いますね。( 笑 )

 さて、橋の手前には崩れた橋がありました。なら向こう側の起伏は、 『 未来の橋 』 に見えませんか?
 長方体の岩のように、やや橋の形をなしつつあります。
 ( この未来の橋も、 「 二筋に見える 」 などの問題があります。 「 未来は決定していない。 」 「 未来は常に二つある 」 などの暗示かも知れません。 )

 そして 『 現在の橋 』 が崩れて横たわる頃、ぼんやりと橋の形をなし、また新しい橋が奥の『 穴 』から、順ぐりに送り出されて来るのです。時間が瞬間を過去から現在へ、現在から未来へと送り出すように。
 いや、未来から現在、現在から過去へと 「 呑み込むように 」 でしょうか? 川は奥にある穴から流れ出しているのですが、それを見ている 「 まなざし 」 の方は、反対に穴へと呑み込まれてゆく。

 橋はこのように、下から盛り上がっては幽霊のように芒 ( ぼう ) っと現われて、また手前の橋のように崩れて正体を現し、横たわるのではないでしょうか? 過去と現在と未来のように ………

    確かなのは現在のみ。しかし掴(つか)もうとすれば過去に成ってしまう、幻のようにおぼろげなもの。
    未来はいまだ空想の中にしか現れておらず、
    過去はただ、思い出の中に佇むのみ。

 これは誰の言葉だったでしょうか。多少不正確な記憶ではありますが。……… ( という事は、指向性を持った意志だけが、人にとっては現在なのかも知れませんね。三つの時間をまたいでいるのですから。 )


 ところであの橋が 『 建造物 』 と呼ばれる事で、私は旧約聖書ダニエルの一節 ( 2'31 ~45 ) を思い出しました。私はある牧師( 注1 )からこの箇所を、「 人類史の概観だ 」 と教わったのです。
  「 人類は金の文明、青銅の文明、そしてついに鉄と粘土 ( コンクリート ) の文明を築く 」
 人の作ったもの、つまり文明は、( もしそれを概観できると言うなら )陽炎のような幻想の一種なのでしょう。
 そう言えば我々は今、自ら作り上げた「 巨大な文明 」 の中にいて、その中に組み込まれているのですが、この文明はいつの間にどうやって出来て、我々は何故、その中で暮らしているのでしょう? 知らないうちに、そうしているのです。それも「 壊してしまいやすまいか 」とヤキモキしているうちに、やがて「 人手によらずに 」打ち砕かれる ………

( このダニエル書に関しては、エッセイ『 よもやま 』の『 ダニエル書 新旧の解釈 』に独立させました。ちなみに上は、旧解釈です。)

 この世界もモナリザの微笑と同様、一瞬。その前と後には、果てしない荒涼とした虚無が拡がっている。それは無限の時間の中で、陽炎のように現れた、一瞬の幻想 ………  「 いつか 」 は、この国も、この星も、いや、大宇宙さえ、 「 最初から何もなかったように 」 、佇む事に成る ……… ( どうせまた、最初から何も知らずにやり直すのでしょうが、ね。)
 この事実を想うと、実に哀しい気持ちに成ります。しかしこれは 『 橋 』 。彼岸に行ける筈です。寂しいのと同時に、今のひと時が、親のように、子のように、また恋人のように愛しく大切に感じられ、慈しみの心が湧き上がります。この慈愛はレオナルドが繰り返し描こうとした表情で、たぶんその中に永遠、 『 ほんとうのさいわい 』 へと渡る、架け橋があるのでしょう。
 いやいや、今はそんな難しい事は考えずに、この三つの橋は単に 『 過去・現在・未来 』 を表わしていると考えておきましょう。


 そして三つの橋の向こうにある 『 水の源泉たる暗い穴 』 は、これは露骨と言って良いほどの暗示ではないでしょうか?
 それは我々がそこから産み出され、やがて帰って行く暗がりのようでもあります。時間 ( 存在 ) はここから順繰りに送り出されては、掴もうとすると消えてしまうのです。「 ゆく川の流れはたえずして ……… 」という方丈記の冒頭を例に引くまでもなく、それは普遍的に川でイメージされます。
 この穴は木の洞 ( ほら ) のようでもあります。これはアラスが地形に対して、「 水は地下を通って大地を潤す 」と言った通りで、時間は全ての存在を浸し、流動性・有機性・変易性( つまり存在する )という性質、そして生命力のようなものを与え、ショウペンハウエルの言葉を借りれば、
  『 時間は存在の基礎低音( グランバス )』
 だからです。

 私にはかなり初期から、 「 これは三つの橋にしか見えない 」 ので、誰が見てもそう見えるだろうと思っていたのですが、今( 2013'4/11現在 )ネットで検索しても、そのように言う人がない。これは本当に不思議です。
 しかし案外、昔から言われているのかも知れません。と言うのも、ダニエル アラスは『 モナリザの秘密 』(白水社)P25で、次のように述べているのですが、私には少し引っかかる所があったのです。

 「 カルロ・ペドレッティを読むまでは、なぜ橋があるかを理解出来ませんでした。( 中略 ……… ペドレッティがいかに偉大なレオナルド研究家であるかを数行も使って力説した後 ……… )彼は私が思いつきもしなかったじつに単純なことを言っています。つまりそれは流れ行く時間の象徴だというのです。川こそは流れ行く時間の、きわめてありふれた象徴にほかなりません。

 ね? おかしいでしょう。川が時間の象徴なら、別に橋はいらないじゃないですか。
 川は描かれてあるのですから、時間を言いたいのなら別に橋を描く必要はありません。それを、 『 橋があれば川がありますが、』などと、まるで川が描かれていないような事を言っている。変な書きようです。
 これは三つの橋について言っているのではないか? ダ・ヴィンチが水の流れの上に、過去・現在・未来の三つの橋を建てる事で、はっきりと川が時間である事を表した。いや、
 時間と言うものの性質、そして時間を意識し考える時の人の心象。無常さや、時間への抗(あらが)い難さ。そしてそれらを受け容れている自分の案外な大きさや、まったくの儚(はかな)さ。そしてまさにそれ故の、現在の、瞬間の躍動性、美しさや愛しさ。
 これらを喜びの顔と哀しみの顔、またそれを一つとしてみた時の印象で、言葉よりもはっきりと表現しているのではないか? ………


 とにかく美術関係者は、絵をあまり説明しないのです。
  「 教えてくれよう、ケチ。 」
 と言いたくなります。しかし私には類似の経験があります。仏教学者もまた、基本的な事以上は、あまり説明しよらんのです。一所懸命考えて、「 わかった! 」と思い。
 「 これは、こうですよね? 」と聞きに行ったら、「 ふふん 」と言う顔をして、
 「 ああ、そうなの? 」
 と、ただニヤニヤしているのです。こちらが「 ぐっ。」と言って返事に困っていると、いつまでもニヤニヤしてこっちの顔を覗いている。それで、
 「 スミマセン。もう一度考えてきます。」と、こそこそ逃げ隠れる事に成るのです。教師としては、
 『 こんなもん、棒暗記されてたまるかい。』
 なんて所でしょう。
 「 お前ら、そんな定型的な答えを知って、ただ覚えても何にもならんだろう。そんな事でこの問題を理解したなどと思ってもらっては、こまる。答えを教師に保証してもらって、お前にとって何の意味がある? 思いつきが確信に成って、当然に成るまで考えて来いっ。」
 ってなもんでしょう。仏教では答えない事に対してわざわざ『 置答 』という言葉まであるのですから、頭の痛い所です。( しかし、学生が見当外れの確信を持ったらどうするのでしょう? 一宗を建てられてしまいますよ。 ≡ 笑 ≡ )

 同様に美術家たちも、
  『 絵とは説明するものじゃない。』
 そう思っているようです。なるほど、絵を前にべらべら説明するなんて、まったく無粋な事です。自分がキザなピエロに成った気がして、たまらなく厭でもあるでしょう。しかし実は、ものすごく説明もしたいのではないかと思います。( 笑 ) だって、自分が尊敬し、好きでたまらないものですからね。だから見事な比喩や暗喩で謳い上げ、考えたら解る筈だという手掛かり、鍵になる着眼点は、たくさん残して置いてくれる。いや、
 「 よほど当然の事以外、答えなんかないんだ。あれこれ論議するがよろしい。君の確信を聞かせてくれ。先生を驚かせてくれ。君らの議論の中に、きっと真実がたくさんあるよ ……… 」
 美術史家たちは、そう言っているのかも知れません。
 言わば美味しい料理を食べさせるのに皿やスプーンを用意するようなもので、食べるのは、あなた。『 説明 』すればそれはもはや、誰にも食べられなく成ってしまう。

 アラスもペドレッティも、モナリザに描かれた橋の上で指をくるくる回し、
 「 ほら、橋。ほら、川。( 三つあるでしょう? )だからこの絵のテーマは、時間。……… ね? 」
 そう言って、ニヤニヤとこちらの顔を覗き込んでいるのかも知れません。

 しかし時間、しかも「 プラトン的時間 」と言うので、大きく暗礁に乗り上げてしまいました。ところがそんな時、
  「 時間を描く。」
 と豪語する画家が現れたのです。


 ( 作後挿入  ……… これは思ったより大きな問題でした。他のどこかで書きましたが、
 『 天才がたたらを踏む所には、必ず何かある。』
 これは作家の癖です。素通りする訳にはいかないものが足許あるのを感じているのです。
 「 この絵のテーマは時間 」というのは、不正確な表現でした。
 とにかくモナリザを見て明確で具体的なサインは二つ。イボと橋です。ここから読み解いて行くのです。)


( 注1 )バプテスト派の牧師で、預言に関して未来の記述の部分に強い関心を持ち、アメリカから有名な牧師を招待して、信徒らに説教してもらうなどしておられました。という事は、キリスト教界では、かなりオーソドックスな解釈だったと思われます。
 1970年代中葉の話。中東で不穏な動き絶えず、ノストラダムス大流行の時代でしした。


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