モナリザの橋は何故あんな形か?

 モナリザの橋は何故あんな形か? 改めてつらつらと考えてしまいました。
  『 ふしぎ発見! 』 でも紹介されていましたが、ダ・ヴィンチの故郷、トスカーナのアレッツォ地方の南、アムル川に、複数のアーチを持つきれいな橋がある。それを描いたのだろう、と。まことに幼少期の思い出は、その後のすべての土台で、やがて帰って行く故郷のようなものでもあります。
 そしてモナリザには アニマにとって重要な要素『 母 』が 、また絵の全体にも、自然の母なる側面が、描き込まれてある。だから少年時代の風景を描いたのだと。
 これも確かな事だと思います。

 また、普通の橋よりカッコいい、装飾性豊か。美しい。おかげでよけいに悪目立ちしている。( 笑 )  いよいよ目につくような効果も狙っているでしょう。

 しかし前述の考察、モナリザの橋が『 時間 』、あるいは『 現在 』を象徴しているのではないかと言う事を考え合わせると、それプラス何か大きなものがありそうです。
 まず現在というものが、そう確固としたものではない。あっという間に過ぎ去り、過去に成ってしまう朧( おぼろ )げなものである。いま晴れていたら明日雨が降るなど想像も出来ない事です。一世を風靡したものでも、ほんの五六年で消えてしまう。消えたらもう、話題にも上らない。「 前回のNHKの朝ドラ、何だっけ? 」と言うが如し。( 良いものは暫らくすると思い出されますが、)長く残るものはわずかです。そう考えると、今の安定も、自分の人生全部も、この国、この世界全部だって、何やら空虚なものに感じられて来る。また、仏陀の言う通り、この世には一切、永遠なるもの、確固たるもの、絶対性を持ったものはない。すべては『 相依性0( そうえしょう )』の関係にあるからです。

   これあるによりて かれあり
   これ生ずれば   かれ生じ
   これなくして    かれなく
   これ滅すれば   かれ滅す

 上は「 苦の滅 」に関して説かれたものですが、もちろん存在のすべてに対する普遍的、根本的な法則です。
 いかに確固として安定しているように思えても、一切の存在は単独ではなく、無数の要素で成り立っている。、まるで複数のアーチに支えられた橋のように ………
 おのれ一人で確固として存在してはいない。愛しく美しいものは( 中央の女性の微笑と同様、)一瞬の奇跡のようで、危うく淡く、儚( はかな )いものである ……… それを表現するには、橋はあの形しかあり得ず、肉眼では捕えきれないほど遠くにあるような、あの形のひずみ、( あれも空気遠近法なのでしょうか?) むしろ水の中にあるような揺らぎをもって描くのが、ふさわしい。
 ダニエル・アラスは、ダ・ヴィンチが橋を描いたのは、絵の依頼者らに『 自分が勝手な絵を描いているのではなく、ここには実際、時間についての深い省察があるのだということを説明するためです。』(『 モナリザの秘密 』 白水社 p26 )と言っていますが、橋とその周辺を眺めていると、「 時間( 存在 )と言うものを描こうとすれば、どうしても、こんなふうに成るに違いない。 」 と思ってしまいます。


 で、次ページの『 第四の橋 』と、そこで紹介した『 プラドのモナリザ 』を眺めていて、
 『 アーチの数は必ず三つのようだ ……… 』と気付きました。
 それ以前に橋の数は三本。過去・現在・未来。
 橋の左に半分隠れたアーチがありますが、これも私には動きを表現したように見えます。これがなければ少し安定してしまうでしょう。
 こいつは『 三の象徴 』だ ………
 三という数字は安定した『 2 』の付属物。あぶれものですから、神話や昔話では進展性、流動性など、何かの動きを表します。東洋の易でも三碧木星は震宮、進・動き、伸びるの意。現代のものでも、第三の男、三匹の子豚、団子三兄弟、枚挙に暇がないでしょう。「 三者会談 」というと何か緊張や進展を感じますが、これが四者に成ると妙に落ち着いてしまいます。これは人類に普遍的な数のイメージです。
 そして橋は流れを見渡す場所、時間を観照するものでもあります。
 つまり 『 時間そのもの 』と、それを想う人の心
を凝視して描かれたものと、私には思われます。


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