キュビスムと時間

ピカソのマリー=テレーズ・ウォルテルの顔部分の
ジャバスクリプト

 さて、ピカソに代表されるキュビズムを、どう表現すれば良いか考えていたのですが、

万華鏡の世界

 と言えばしっくりします。実は三枚の鏡だけで映し出される万華鏡の世界は、ナタで粗く切り分けたような構図と、非写実的なイメージの画風に、良く似合います。ひとつの被写体を全く別の角度から映し合い、しかもそれぞれが無関係ではなく、やはり一つのものとしか、言いようがないのです。

 これに対してモナリザの亜キュビズムは、まさに、

水の中の世界
と言えるでしょう。

 世界が混沌( カオス )から抜け出し、幻想の世界から更に一歩、現実へと踏み出した瞬間を、動きを止めぬままに描いた、水の中の風景です。
 触ろうとすると水面が揺れ、ますます見えなくなるじれったさ! それがまた、憧れを駆り立てる!
 この気持を画家、いや創作家とその愛好家すべては、どれほど味わう事でしょう!

 意識に深く潜れば、ついに『元型的な』領域に立ち入る事に成ります。何もかもが大雑把に成って来て、線も単純、色も原色的に成って行きます。男女の概念も、希薄に成って行きます。その分なにもかも力強く、手出しが出来ないように成って来ます。「元型的な夢や妄想が現れてくると、危険。」と言われています。文字通り狂気の世界で、意識が統合するには困難な対象なのでしょう。この下はもう、すぐに底の底です。

 普通の写真に代表される写実的な表現、これが全くの現実世界とすると、表面的な自我意識を支えている一つ下の意識の階層、水面下の意識から更にキュビズムの万華鏡世界、これは言わばイメージの世界と言えるでしょう。


 さて、キュビズムやエジプトの絵画が何故『永遠』を表現しているかですが、
 『意識が深くなれば成るほど、時間はゆっくり流れる』
 事に成っているからです。客観的な時間、クロノスの時間とか言われているものが、どんどん希薄に成って行く。
 意識の深みにゆけば行くほど、時間の観念は意味をなさなく成ります。
 時間と空間は表面的な意識と、それに対応する現実世界、表面的な意識にだけ通用するものだからです。

 仏教でも、天上世界の上にゆけば行くほど、時間はゆっくりと流れる事に成っており、倶舎論によれば、兜率天の一日は、地上の57億6千万年と言う事に成っています。それで釈尊入滅後、兜率天ではすぐ翌日に仏陀が供給されるものの、地上ではそれだけ時間がかかってしまう。これが弥勒予言の全貌だと習いました。
 「なぜ天上世界の上へゆけば行くほど、それだけ深い意識が対応する事に成っているか」と言うのは実は、非常に説明しにくい問題で、例えば「なぜ古代人は神話の題材に星を選んだか?」などと聞かれたら、「当たり前じゃないか。」としか答えられない。私もさんざん困ったのですが、もう単純に、「それだけ自我から遠いからだ。」と思っています。単なる絶対値の概念です。内側のものは外に投影されるので、深いものほど遠くに投影される。しかし何故、遠景は美しいのでしょうね? (ショウペンハウエルは、「余計なもんが見えないからじゃっ。」と言う意味の事を言っていますが。 -笑- )

 以上の事から、身体が正面を向き、顔が横を向いているエジプトの絵画や、ピカソに代表されるキュビズムの絵画は、それが現実のものではなく、現実を成立させているイメージの世界を描いたものと言えます。それは見る人によっては、はっきりと『永遠』を直接的に訴えかけるものなのでしょう。

 では何故ダニエル・アラスはモナリザを指して、
 「この絵のテーマは時間なのです。」と、( 出1 )
 またルーブルは
 「プラトン的な時間」
 などと言ったのでしょう。
 それを『永遠』とも『世界』とも言わずに。


( 出1 )『モナリザの秘密』白水社 P25


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