とても若く美しいモナリザ
モナリザは遠くからならこちらを見ているが、近づくと目をそむける ………
それは拒絶しているようでもあり、恥ずかしげに目をそらした少女のようにも見える ………
妙に身をくねらせている姿勢は、もうはっきりと大きくなったお腹のせいであり、落ち着いていて堂々としていて、母となった自信に満ちているようにも見える。が、有名な画家を前に緊張し、はしゃぐような気持ちで少し緊張して手を重ね、ちょうどカメラを向けられた少女が目をくりくりさせている一瞬を捉えたようでもある ………
着色部分がモナリザの実際のボディライン。 |
モナリザを少女として見はじめたら、もう止めどなく、何もかもがそのように見えて来ます。たとえば体全体の線を見てみましょう。
私は長い間、ヴェールの線が体の線と思っていました。何故かと言うと、そうとしか見えなかったからです。
しかしテレビのモナリザ特集番組で、高解像度のカメラが実物よりも大きく映してくれているのを見たら、今までボディラインと思っていたのはヴェールの線でした。これに気付いて絵を良く見ると、確かに向こうが少し透けて見えている。長いあいだ気付かなかった。本当の体の線は、右の通りです。
これには驚きましたね。右の絵は私が写真の上にトレーシングペーパーを置いて、シャープペンでなぞったものをスキャンして、ペイントソフトで着色したものです。だから少々大雑把ですが、タダと思って我慢しましょう。(笑)
どんな風に見えますか ………?
しなやかで、たおやかで、男性なら思わず抱きたくなるような小さな肩、女性から見ても、守って世話をしてあげたくなるようなタイプの友達ではないでしょうか? 着色した色のせいか、黒猫ちゃんのような艶(なまめ)かしさがあります。
体全体からの雰囲気は「作為のなさ」です。どこにも力が入っていない。子猫をつまんでイスの上に置いた時のようで、猫が座布団の起伏に合わせて体をそのまま落ち着けるように、モナリザも少し体をひねってそのままイスに掛けている。無理に体をひねっているようには見えず、ふにゃんとして一種の無邪気さが感じられます。
それともカメラを前にして少し華やいで、ポーズをとったようにも見えますか?
生来高貴な姫君の、くつろいだ自然な姿勢で、気品に満ちて落ち着いた物腰のようにも感じられますし、庶民的な屈託のなさのようにも見えます。
くつろいでいるのか少し緊張しているのか、どちらでしょうか? こんな時には人は、顔の表情からそれを読み取ろうとします。ところがその顔ときたら『 相反する表情の合成 』。
左( 向かって右 )が青春のおごりに満ちた自信たっぷりの男性の顔、あるいは歓びの顔。
右が老いやあきらめを感じさせる女性の顔、あるいは哀しみの顔 ………
なのですから、見るたびにどちらにも見えると言うより、「どちらに見る事も出来ない」のです。
やはりモデルは公女、イザベラ・デステ? いや、商人ジョコンドの妻、ジョコンダ? いやいや、イザベラ・デステを下敷きにジョコンダの肖像画を描いたのだ。いや、ジョコンダの肖像画に、イザベラ・デステを生かしたのだ。いや、全ては『 母 』に統合されている。いやいや、統合されていると言うのならそれは自画像、『 自己 』の中にだ。………
モデルが誰かは、文献としてはジョコンド夫人に決定したとしても、我々は永遠に探し続けなければならないようです。しかもそれを自分の中に。
「 いったいダ・ヴィンチは私の中の誰を描いたのだろう? いったい私はモナリザの中に、何を見ているのだろう?」と。
いずれにせよこれは、明らかに若い娘の姿 ……… 十代前半の少女のようにさえ見えます。