少女の視線
いま一つ気づいた事を書いておくと、近くから無心な気持ちでモナリザを見た瞬間、まるで今までこちらを見ていた少女が、目を合わせる事にはにかみ、とっさに自然を装って微かに視線をそらした時のようにも見えます。この場合、視線も微笑もすべて、その意味に見えます。
女性が合わせた目を斜め上にそらせるのは、少しときめいて、嬉しく恥ずかしく成って、そらす。( あるいは「 こいつ、誰だっけなあ 」と思い出すための場合もあるでしょうが、これはボツ。-笑- )
身体も少女が気取った時のように、自然にくねってしまったのかも知れない。しばしば問題になる腕のふくらみも、緊張して腕を上げた瞬間のようにも見える。その他、不自然を感じさせる様々な事も、有名な画家に対して緊張してしまい、ペコちゃんのように嬉しく視線を斜めに上げただけのようにも、見えなくもありません。いや、明らかに『 そう見えるようにも描いた 』と思われます。
しかし「 モナリザがそれだけの絵 」と言う解釈は、いかにもどっしりとした「 風格 」とも言えるような印象が、たちまち打ち消してしまいます。いったいモナリザは、若くもあり長けているようでもあります。肥っているようでもそれはヴェールのせいで、痩せているようでもあります。
モナリザはとにかくこの世界のように『 単一の見方 』を決して許さず、「 これはこう言う絵だ、こう言う意味だ。」と思った瞬間、「 そうとも言えないぞ、」と自分で打ち消しにかからねばならない。モデルが誰かと言うのと同じで、固定的な考えの全てが微笑みに包み込まれ、自分がまったく子供じみているような気に成ります。神のような天才を前にしたら、誰でもそうかも知れません。
「人生とは何か? 世界とは何か?」と言う問いに対して、得意げに見識を披露して、翌朝いそいで撤回しなければならない時のように、生きて動いている世界に、固定的な認識しか持ち得ないのが人間かも知れず、モナリザが現代に流行(はや)るのは、何となく単一の見方、考え方以外は許されないような、乾いたこの時代の雰囲気にも、関係があるのかも知れません。