母、娘、太母、そしてマリアから叡智へ

 母、娘、太母( たいぼ )は、ギリシャ神話ではデメテル、コレー、ヘカテーです。易経流に言うと巽、兌、坤と成ります。
 『 女性の三相 』などと呼ばれていますが、それぞれは『 元型 』でもあります。

 モナリザに描かれた、少女、娘、母、太母( 大巫女 )。
 これに対して故、河合隼雄博士は、その記念すべき処女作『 ユング心理学入門 』( 培風館 p204 )で、

 アニマが分析を通じて追求されるとき、それは一つの発展の過程をたどるように思われる。


 と述べられ、アニマの大きなアウトラインを次のように提示されました。

 これをユングは四段階に分けて、第一段階を生物学的な段階、次にロマンチックな段階、そして霊的( spiritual )な段階、最後のは叡智( wisdom )の段階としている。(p205)

 モナリザのモデルを考える時、これは大きなヒントになる ……… いや、ほとんど答えに近いのではないでしょうか?

 ( ここで少し耳寄りな情報を挿入しておきますと、コレーはそもそも、創造・維持・破壊という存在の三相(つまり循環)を一身に受け持っていた女神だと言うのです。ダ・ヴィンチはこれも意識していたのかも知れません。リンクを張っておきます。)

ウィキペディアのコレーの項目

 さて、生物学的な段階とは「 娼婦型アニマ 」で、アニマの歩みは性的な魅力から始まります。女の子もおませさんなら、小学校の中学年くらいにも成ると、お化粧に厚い関心を示し、自分の髪を事務ハサミで切り、とんでもなく不細工に成った顔を鏡に写し、そのサイケな美しさに感動し頬を紅潮させ、親を絶叫させる事があります。( 笑 ) 中学生くらいに成ると髪を染めたくてたまらなくなり、自分が耳飾りなどして町を歩く姿を想像するだけで、心がはずむ。もう、世界全部が自分のものに成ったような気がするようです。結構な事です。
 男性の中のアニマも、お色気優先です。とにかく直接的に子供を生むような事が中心です。
 この段階のアニマは、まだ人格や個性とは関連していません。

 そして次のロマンチックな段階とは、センチメンタルな段階ではないと河合博士は注意を呼びかけます。

 ロマンチックアニマは、まさに西洋の文学が多大の努力を払って描き続けたものであり、古来の日本においてはあまり発達させられていなかったものといえるだろう。(中略) 実際的に、この段階にまでアニマを開発させている日本人は、現在においても、非常に少ないように思われる。(p206)

 と言いますから、なかなか一筋縄ではいきません。ほとんど人間として最高の段階であると思います。私はこのアニマは『 創造性 』が特徴であると思っています。と言うのも、もっぱら天才の男子の仕事と言われる創造は、基本的に女性原理に属するものと私は考えており、彼はまさに身を削って産み出すのです。
 娼婦型アニマと、その周辺の僕たち、つまり怒りや妬み、憎しみ、恐怖、死を中心とした自他の区別のない攻撃性など、自分の下位意識、影との全面対決をして、それらを取り込んで練り上げた内面を持つ人々。
 最も憎むべき、それを排斥するのに全人格を賭けて戰って来たものが、まさに自己の中にあると認め、それを受け入れた自己を許すだけではなく、しかも「 真 善 美 」への志向をやめない人。
 前に進まざるを得なかったため、これらの不可能事を成し遂げた、泣きながら大切なものを置き去りにして来て、後にそれそのものを永遠に手に入れた人 ……… 
 それは特に著名人、偉人でなくても、自分の人生を本当に創り上げて行った人々の内面の、人格化された何かであると思います。

 アニマの第三の段階は霊的な段階で、聖母マリアによって典型的に示される。(中略)
 これは母でありながら、同時に処女であり、母親としての至高の愛と、乙女の限りなき清らかさを共存せしめている。(p206)

 母であり娘でもあるもの! それはマリアであったか!
 ( マリアと言えば、レオナルドが繰り返し描いた姿、そしてその奥にいるマリアの母アンナ。モナリザにはそれが共に描かれている?!)

 何か、モナリザを解説するための文章のようですね。愛欲、下位の意識は神聖な愛に昇華されて、マリアの本質にさえ変容しています。
 マリアの名は、「 モナリザのモデルは母親説 」の周辺で、常に囁かれています。
 深く練り上げられた人格は、ついに気高い宗教的な色彩を帯びて来、この段階が最も聖なる、最上の段階であると言われています。

 しかし最上の次にはいつも、美しく何かを放棄した形で、すべてを統べる、その上がある事に成っています。河合博士はこの不思議に対し、

 これは、たぶん、「ときとして、たらないものは過ぎたるものにまさるという真実によるものであろう」(p207)

 と言うユング自身の言葉を引用しておられます。
 確かに完成してしまったら、動きがなくなります。そしてこれは易の方でやかましく言うのですが、変易こそが存在の性質です。仏陀にように涅槃に入ってしまったら、欠落を求めて遊行せねばなりません。
 しかしいったい、神のように、この世界の全てを認識する事が出来たら、我々はどんな表情をすれば良いのでしょう?
 ショウペンハウエルは、「 この世界の苦痛と快楽をすべて知る者が、地上が月面のように何もかもなくなったのを見れば、前と比べてどれだけ良い事に成ったかと思うだろう。」と、強烈な皮肉でごく若い私を爆笑させ、また、「 この世界の苦痛と喜びの比率を知りたければ、食うものの快楽と、食われるものの苦痛を比べてみるがいい。」とも言いましたが、いや、これは笑い事ではなかった。
 しかしもし、自分が世界そのものに成ったら?
 食べるために殺しながら、同時にこの世界の存続のために殺されており、しかも風や光や水でもある存在に成ったら?
 岡倉天心がモナリザを表現した通り、「 心に暗愁をいだきて笑みて 」と成るのではないでしょうか?
 巨大な苦悩はわずかの歓喜と完全に均衡(きんこう)を保ち、静かに、いつまでも回転しているからです。
 これは『 叡智のアニマ 』と呼ばれるもので、河合博士はその例として、ゼウスの頭から鎧(よろい)を着て生まれて来たギリシャの女神アテネを挙げた後、

 この段階のアニマ像としてわざわざギリシャの女神をあげなくとも、我国の有名な中宮寺の弥勒菩薩像があげられると筆者は考える。(p207)

 と述べておられます。あの、半跏思惟像(はんかしゆいぞう)ですね。お顔がよく写っている中宮寺のHPの『 本尊 』や、楽しいブログ などがお勧めです。
 そして中宮寺『 本尊 』のページには、弥勒菩薩が、

 数少い「 古典的微笑( アルカイックスマイル )」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「 世界の三つの微笑像 」とも呼ばれております。

 とあります。

 もちろんダ・ヴィンチは、突然あわられた訳ではありません。それまでのヨーロッパの文明、文化の背景、キリスト教の下地、美術や技術の蓄積の上に、出るべくして出たのです。しかし二つの文明圏に対し、一人の人間が一枚の絵で堂々渡り合うなど、途方もない事です。『 個人 』と言うものを、つくづく考えさせられてしまいます。と言うのも、私達だって、個人なのですからね。たぶん、すべてはここから生まれたからです。そしてこれからも、産まれて行くからです。
 この、いとも簡単になぶり殺しにされてゆく、個人から ………

 河合博士は、

 モナ・リザも、西洋における、この段階のアニマ像の表現の一つと考えられる。(p207)

 として、アテネ神、弥勒坐像、モナリザの共通項として、観世音菩薩を引き合いにしながら、この段階のアニマが、

 男性のようでもあれば女性のようでもある( むしろ女性的と思われる )(p207)

 と、まさにモナリザの中核に言及しています。更に言うならモナリザは、はっきりと女性であり、その正面には男性の顔が現れており、その奥には、神がまします。

 母であり、理想の女性であり、世界そのもの、つまり自己自身でもあるもの。その形成には母親が重要な役割を果たし、そしてそれは目の前の一個人モデルに投影される事もある。

 ……… 何か、思い出す概念はありませんか?
 そう、今まで見てきた通り、ユングの言う『 アニマ 』の概念に、非常に正確に合致します。それは『 自己 』と呼ばれる自分のたましいが、あるいはこの宇宙が、女性的な人の姿に表現されたものです。
 この答えにも驚かされましたが、私はむしろ今、教科書通りに暗記していたユングの『 アニマ 』の概念が、これほどまでに豊穣であった事に驚いています。これはモナリザに取り組まねば絶対に、一生わからないでいた事でしょう。
 そうしてダ・ヴィンチは、すべてのアニマ像を残らずこの一枚に結晶させたのでしょう。

 ちょうど透明なダイヤモンドが、その形の中に全ての色を宿していて、見る側の目がさまざまに色を拾い、みずから魅了されるように、それが多彩であると言う事を教えてくれるのです。

 目が色を拾うのは、目の中にすでに全ての色の光があるからです。アニマは我々の心の中に、種々の階層をなしてある。
 アニマは最下位から最上位の意識まで、地下から天上までを貫く一本の柱のようにある。
 人の心の中には、最初から全ての女性像が、複合された合成画のように、一つの人格として統合されてある。
 ダ・ヴィンチはそれをそのまま描いたのだと思われます。
 これが『モナリザのモデルは誰か?』に対する答えだろうと思います。

 しかしいったい人間にそんな事が? ……… たった四本のラインだけで? ……… ダ・ヴィンチの天才に、改めて驚嘆せざるを得ません。

 我々が「モナリザのモデルは?」と問う時、それは「絵画中央の女性」を意味している筈です。
 その答えは出たと言って良いのではないでしょうか?
 我々は「モナリザのモデルは誰か?」と言う問いで、「アニマとは何か?」を論じていたのではないでしょうか?

 モナリザ中央の女性は、『 正確な意味でのユングの言うアニマ像 』
 少女であり娘であり、母であり聖母でもある、人類の意識に普遍的に存在する女性像。
 投影の題材として使われたのは、夫人(モナ)リザ(エリザベッタの愛称)・デル・ジョコンダ。

 ところがモナリザは、これで終わりではありません。
 人はアニマによって、意識の堂奥へと導かれるものだと言います。
 ダ・ヴィンチが完全なアニマ像を描いたのは、まさにそこへ、「 世界へ 」と、人を導くためと思われるからです。
 だからこれはむしろ、入り口かも知れないのです。


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