子供の夢
(C.G.ユング 人文書院 )

 この本の一部を読んだ友人が多少興奮気味に、
 「 ユングっておもしろい。貸してくれ。」 と言いました。
 しかし断りました。何故ならこの本はユングが生前 『 門外不出、出版禁止 』 を命じた本だったからです。
 そんなものを一番最初に読むべきではないのではないか?
 そう思ったのです。今から考えると、残念な事をしましたね。おかげで彼はいまだにユングを一冊も読んでいないのですから。

 これはユングの講演録です。出席者はユングの友人とおぼしき教授連と、若干の学生達。あなたはそんな会に出席できるとしたらどうですか? 私だったら飛んで行きますね。
 もちろん意見を述べたり質問したりする事は出来ませんが、まったくそばで聞いているような気がして来るのです。
 本文、 『 背景の本質 《 四分割 》 』 で引用したので、一応 「 参考にした本 」 に載せようかと思った訳ですが、本文は案外、この本に依る所が大きい知れません。
 最近、 「 画家の描く絵というのは、夢に似ているのではないかなあ? 」 と考えたりしています。きっと、無関係ではありません。だって、この本から引用した子供の夢と、モナリザの構図はまったく同じだったのですから ………

 では何故ユングはこの本を出版禁止にしたか?
 思うに ( これはユング派 分析心理学の欠点のように言われていますが、) 『 決めつけ 』 が多いからです。
 「 子供がカブトムシにはさまれた夢を見て、腹痛を訴えた? → 成長痛です。」
 と、このように、定型的な判断として決めつける。そんな癖がついたら困る。
 かつて沖正弘というヨガの先生は、
 『 ヨガには大原則はあるが、原則はない。 』
 と言われましたが、まさにそのような意味で、分析には定型的な判断は出来ない。絶対にしてはいけない。
 では何故そんな 『 決めつけ 』 がこの本に頻発するかと言うと、出席者らがユング心理学の精通者で、学生と言ってもどうやら普通の学生ではなく、非常に創造性豊かな学生達であった。後にユングらと共に体系を作っていった人々だったかも知れませんね。私の学生時代を想像してもらっては、困ります。 ( いや、そんなの誰も知らんし。)
 言わば 「 ツーと言えばカー 」 の、熟練研究者同士、スタッフ仲間の実践講演録です。この辺の決めつけは、もはや超能力の次元で、名医とも成ると同じ症状でも違う判断を下し、それが誤る事はない。しかし誰でもこの調子でやれると思ったら大間違いで、書籍は広く一般に、普遍性の高い内容のものを提示するのがその性質であるから、この講演録を出版するのは凶。あくまで仲間内での参考的な資料とすべし ……… そうユングは思ったのではないか?

 そしてこの本の貴重なのは、『 ユング直々の夢判断の実例集 』 である事です。本の帯には 『 極めつけの夢分析 』 とあります。
 夢判断や精神分析とは一種、抽象から具体を導き出す技です。( 私は易経のサイトも運営しているのですが、) 易ではこれを 『 取象 』 ( かたちを取る ) と言います。抽象的な暗示から現実の事象をつかみ出す、その中心を言い当てる事です。易者の腕の一つですが、これには名人の 『 占例集 』 を読んで実践 ( 臨床 ) を積むしか、上達の方法はありません。

 うまく出来たらその象徴は 『 生きる 』 。そして、分析に感動を伴い、その夢や作品の本当の価値を発掘し、芸術や人生をより高い次元で見る目を与え、時代や地域を越え、多くの他者とさえ、それを共有できるのです。
 この逆に、定型的で杓子定規な分析は、ただ引き下げ、感動を奪う事で、価値を無機的なものにしてしまう、作家や芸術家を本気で怒らせる、明らかに故意と判る演奏会中の咳払いのようなものです。

 けど本当の分析なんて、なかなかうまくは出来ないんですよねえー。名人とともに実例に当たり、そのコツを覚える。それで学術的に体系化された参考書からでは得られない、実力とも底力とも言うべきものが、研究者の身につくのです。

 夢はストリーのある絵画とも言えましょう。ショウペンハウエルは、「夢のなかでは誰でもシェイクスピアである。」と言いました。夢の中で自分や登場人物の持っている物、シーン、構図、背景、それらを 「 うまく読み解く 」 、つまり情感を失わぬままに意識と対話させる事は、我々の知っている言葉では、分析と言うより 『 鑑賞 』 に近いものだと思います。
 この二冊はその練習のための、貴重な本です。また、夢判断に精通したい方にも、ぜひお勧めです。


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