『レオナルド・ダ・ヴィンチ 第二版』
ケネス・クラーク
この本はレオナルド関係のあらゆる書物に引用されるような、 「 古典 」 とも 「 巨峰 」 とも呼ばれるような本です。
著者ケネス・クラークは 「 二十世紀なかばで最も優れた美術史家 」 と呼ばれ、美術関係者の多くが彼の名を語る時の深い尊敬と信頼に満ちた態度は、その巨大さを感じさせてくれます。
第二版と言うのは、著者自らが加筆したからで、これは言わば決定版と言う所でしょう。初版は1974年。古い本ですね。
作品や芸術家には次々と新しい発見があるから、研究書と言うのは新しい方が良さそうなものです。それが何故、こんなに古いのに読み継がれているのでしょう?
それはこの本自体がもう、立派に芸術作品だからです。
作品に対する着眼、展開、そして表現が、もう後世の追随を許さず、分析と追求の的確さはお手本にしか成らず、独自の域にまで達しており、古く成りようがないのです。
いや、どれだけ新しい研究でも彼を越えられない部分は随所に見られます。それは美術のみならず、芸術と世界すべてに対する理解と造詣で、おそらくは研究によっては至り着けないものかも知れません。ただ天性の才能と、誠実によってのみ至り着ける境地と思います。
また、新しい発見によって訂正しなければ成らない箇所は、見当たりませんでした。これは最も基本的なデーターから、出来うる限りの事をして、直感による飛躍はあっても、あいまいな推測はしないという、学者としての誠意によるものと思われます。
文章や表現の素晴らしさは驚くべきで、詩人の資質を持った学者とでも言いましょうか。もはや美しいとしか言いようがなく、読む目を止めてしまう文章も散見されます。
レオナルドの作品と人物を理解するのに必要な知識の記述は、簡にして要を得ていて、大学者がしばしば持っている、われわれ一般の者に対しても語り慣れた平易さ ……… 「 レオナルド・ダ・ヴィンチを知りたければまずこの本を読め。 」 と言われる方も多いのではないでしょうか?
また、若い人にとっては 「 非常に優れているため余りにも使い古され、もう使われなくなった表現 」 が聞ける、貴重な本だとも言えるでしょう。いま活躍している人達は、こう言うのを読んで身にしているのですから、若い人も読んでおいて損はありません。例えばモナリザを評した言葉、
「 時代が進むにつれて新しく解釈し直さねばならぬ作品である。 」 ( P166 )
などは、昔はよく優れた古典に対して使われたものです。その他、名言が目白押しです。ほか少し意訳的に紹介すると、 ………
15世紀のイタリアが太陽の世界とすれば、レオナルドは薄暮の世界 ( p11 )
自然の本質は 『 乱れ 』 のようなもの ( p19 )
目的は動きを描く事にあったかのよう ( p27 ) ( そしてモーツァルトとの対比があります。 )
背景は基礎低音 ( グランバス ) ( p66 )
空気とゆらめく光の描写こそ、レオナルドが時に発揮するもっとも素晴らしい才能 ( p96 )
いや、これじゃ終われません。 ( 笑 ) いくらでも続けてしまいます。
しかし私がもっとも感銘を受けたのは、 『 はじめに 』 の部分、
レオナルドの関心は、どんな場合でも必ず、構造から有機体へと移ってゆくのが常だった。 ( ⅩⅤ )
何かしら、これからの人類のゆくすえを暗示、展望するような文章ではないでしょうか ………
そうだった ………
文化と意識と文明との関係は、ちょうどイメージと芸術家と作品の関係に相当する。その歩みが、 『 歴史 』 だった ………
だから文化の今まで歩みを見れば、歴史がどう動くか解る。どの方向に行くべきかも ……… そして現在、いや、半世紀以上も前から、文化は行き詰まっていると言われ、文明は終わると言われている ………
非常に優れた芸術作品は一瞬、このような巨視的な感覚にわれわれを誘い、自分の小ささと与えられた時間の短さを、反対に全面的に肯定してくれる。
永遠に触れる一瞬を得たい。その時の感動を求めて、われわれは優れた作品や天才を憧れ求めるのかも知れません。
この本もそういったものの一つです。