『モナリザの秘密 』

ダニエル・アラス 著 (白水社)

 この本は2003年夏、25回にわたってフランスでラジオ放送されたものの書籍化です。
 そしてアラスはこのラジオ放送終了後まもなく、まだ五十代の若さで、この世を去ってしまうのです。……… 著者紹介の項には 「 ダニエル・アラス ( 1944~2003 ) 」 と ………

 しかしこの本は、まさに最期の輝き、爆発で、読んでいて差し迫った緊迫感さえ感じられます。こう言う時、人はとんでもない事をします。この時期にアラスが絵画の歴史を語る機会を得た事、しかもそれが専門家相手にではなく、広く一般に対してであった事は、決して偶然ではないでしょう。それこそ彼の人生全部の、一番の願いだったに違いないからです。

 この本は特にモナリザだけをテーマにしたものではなく、

原題は 『 Histoies de Peintures 』 で、直訳すれば 『 絵画の歴史 』 です。


 副題には 『 絵画をめぐる25章 』 とあります。

 この題名は、苦渋の選択だったかも知れません。『 絵画の歴史 』 では、堅苦しい、ムツカシイ本だと思って、美学生でもなかなか買ってくれないでしょう。ところがこれは 『 おもしろい本 』 なのです。 「 絵画の歴史 」 が何故おもしろいのでしょう? それは、流れの中で絵画を見るからです。ここに感動があります。
 そして哲学の学者を哲学者、科学の学者を科学者と言うのに対し、美術関係の学者がなぜ特に 「 美術史家 」 と呼ばれるか、私にも何となく解ったような気がしました。美術にとって歴史は、おそらく他の分野よりも大きく重いのです。
 流れの中で見ると、画家たちが最初、何に取り組み、どう表現し、それを乗り越えて来たかが、ひとりの人間の ( まるで読み手自身の! ) 思索や苦闘の足跡のように感じられます。あるいは絵画芸術自体が、一つの自律性を持った生き物のようで、たくさんの画家を使って、自ら成長して来たようにも見えます。またそれぞれの画家は、絵画芸術それぞれの側面であり、一つの物語の各章であるとも言えましょう。

   第一章は導入部で、絵画の価値や理解について、また著者と美術の関わりについての感慨深い述懐です。そしてこの辺がアラスの筆力、話力で、読み手はアラスと共に絵画と言う芸術分野に出会ってゆくような錯覚を覚え、先を読み急ぐ事に成るのです。

 次の第二章でモナリザを扱っています。ところがモナリザは、一筋縄ではいかない作品の代表でもあり、非常に密度の高い文章に成っています。この章を最初に持って来たのは、ラジオの聴取率を意識した事もあったかも知れません。しかしそのために、一種の奇跡が起こりました。レオナルド・ダ・ヴィンチこそ、それまでの全てを包括し、その後の礎と成った巨人だったからです。
 読み手は気付かぬままに、絵画芸術全体を眺望してしまいます。そうしたら、はやりこの本の題名は妥当だったのかも知れません。

 そして三章から本格的に絵画の歴史、画家たちの格闘の歩みを語り始めます。先人の肩に足をかけ、尊敬する頭を踏み、一歩ずつ前へ、先へ、先へ。そうすると一足ごとに、エポックとも言うべき絵が産まれて来ます。それらはしばしば、我々が目にしていた 「 あの絵 」 だったのです。
  「 確かにきれいで、何故かしら感銘深いものがあるあの絵 」
 を、自分が何故そう感じていたか、人の口から上手に語られるのを聞くと、自分が漠然と大切にしていたものが、はっきり素晴らしいものであったと、これは自分自身で気づく事が出来るのです。


 絵画の歩みは蓄積されて行きます。技術と成果の蓄積です。眺めていてもおもしろい物ではないはずです。しかし事情を知っている者の舌にかかれば、それはドラマであり、聞き手すべての 『 自分自身 』 に関わる事に成ってしまいます。それが歴史と言うものでしょう。

 たとえば線遠近法という 『 技術 』 があります。
  「 技術や技巧なんて勉強したくない。そこまで美術に入れ込む気はない。 」
 私はそう思っていました。
 ところがアラスは、この線遠近法を使って実におもしろい説明をしてくれるのです。
  「 技術が、面白い? 」  いいえ、
  「 技術で、面白い。 」  のです。
 科学でもお料理でも、どんな趣味でも、そうではないでしょうか?

 右の図をご覧ください。自宅のブラインドを写したものですが、ブラインドの一枚一枚の延長線は当然、一点で交わります。これが 『 消失点 』 です。つまりこれが絵に対する目の高さで、画家は 「 私はこの高さ、この位置から絵を見ているぞ。 」 と言っている訳です。これでその絵に対する画家の視点がわかります。

 アラスはこの説明にフェルメールと言う画家を例に取りました。フェルメールは高く評価されている画家であり、一般にも広く親しまれています。が、私はフェルメールを見ていつも、
  「 地っ味な絵だなあ。どこがいいんだろう。 」
 と思っていました。 ( 苦笑 )  しかし人から 「 いい絵ですね。 」 などと言われると、
  「 本当に、何とも言えない暖かさがあり、不思議な落ち着きを感じます。 」
  などと、 ( 爆笑 )  いや、それは本当の事ですが、歯が浮くような社交辞令でもありました。
  「 しっかし本当に、どこがいいのかなあ? ヒトラーはフェルメールに熱狂していたが、彼は美学校の落ちこぼれだから、一応の心得はあったろうし ……… 第一、確かに不思議な落ち着きを感じる。何故だろう? ………  」
 首を傾げる私にアラスは指摘します。

 幾何学的な水平線は、絵に描かれた人物の目の高さと非常に近いのですが、いつもそれより少しだけ下にあるのです。 ( P176 )

 これではじけました。
 ああっ、本当だ! ……… ではこれは、子供から見たお母さんの姿? 子供時代の、食事の支度をし、縫い物をし、手紙を読む、お母さんの姿? そしてそこは 「 家の中 」  ……… ヒトラーは母親がひどく苦しんで死ぬのを見送ったと言うが、それでフェルメールを? ………

 これで一気に、たくさんの疑問が絵から噴き上がりました。もちろんアラスは上で私が書いたような事は、いちいち言いません。一言、ただの一言 「 少しだけ下 」 と。それが私にとってフェルメール作品のすべてを 『 意味のある絵 』 にしたのです。
 ところが消失点が 「 少しだけ下 」 と言うのは、それだけの意味ではありませんでした。ここから先は読んでのお楽しみです。

 それから私は、絵を見たら消失点を探すと言う遊びを覚えました。見つけると、その意味を考えます。画家の意図を探るのです。おかげで 「 絵を前にしてまったく退屈してしまう 」 と言う事がなくなりました。しばしばヒントを与えられます。そしてそれは喜ばしい事に、自分で見つけたものなのです。
 例えば右上の絵は、窓枠を延長させ交わった所、消失点から水平の線を引いたのですが、
「 おやおや? 右上の絵 『 手紙を読む女 』 は、消失点が反対に少し上だぞ? 何故だろう? 消失点が、ちょうど明るさの中心だな。あ、線の交点がちょうど目の真正面だから、明るさの中心はそれより少し窓よりに成る訳だ。」

 などと、まあ、こんなふうに長いあいだ遊んでいられるのです。
 また線遠近法は単純ではなく、アラスはダ・ヴィンチが非常におもしろい使い方をたくさんしているのを紹介しています。

 『 最後の晩餐 』でも、アラスは人物の横の列が背景の遠近法から抜け出していると指摘します。 ( 確かに十二使徒すべて、一人ひとりは、同じ距離で正面から描かれたような感じがします。 ) また齋藤孝先生は 『 ざっくり美術史 』( p79 ) で、 「 イエスの右のこめかみのあたりに消失点の穴が見つかった 」 などと紹介しておられます。面白いですね。一つ引っ掛かりがあったら、興味は尽きなく成るのです。

 最初期の作品 『 受胎告知 』 でも、研究者によってぜんぜん違う見方をしており、アラスは 「 背景の塀を延長するとマリアの家の中に入ってしまう 」 と指摘します。 ( そう言えば背景も何もすべて、マリアの中になだれ込んでゆくように見えます。 ) けれどもぜんぜん別の事を言う人もいるのです。これらは絵に対する解釈そのものにも関わる論議であり、モナリザに限らず、ダ・ヴィンチはごく初期から 「 作品に単一の見方をさせてくれない 」 のかも知れません。すでに背景の山に、はっきり空気遠近法が使われているし、線遠近法だけでも、現在の研究者が寄ってたかっても簡単に答えが出ないようにしているのですからね。しかしこれは多分また別の物語。また絵入りで紹介できたらと思っています。

  『 モナリザは何を見ているか? 』 で紹介したボッティチェルリの 『 ヴィーナスの誕生 』 も、私にとっては 『 突然に開けた絵 』 でした。これはスキャンした絵をパソコンでいじっているうちに偶然見つけたものですが、左右の視線の意味に気付いた瞬間、一気にこの絵が 「 生きて来た 」 のです。構図も細部も背景も、すべてが興味の対象となりました。それまで 『 ヴィーナスの誕生 』 は、私がこの絵をはじめて見た小学生の時のままの印象、 「 500年も前に描かれたものが残っているから、すごいだけ 」 の絵だったのです。何の興味も感動もない、 「 ふうん、これが名画か。 」 と言う絵でした。

 「 絵と言うものは、自分には解らないのだ。自分には絵の才能なんかないんだから。」
 長い間そう思っていました。そりゃあラファエロや田中英道教授のようには鑑賞できませんよ。しかしそれは、
 「 野茂やイチローのように大リーグで活躍するほどの実力がない。」 と言う意味で、 「 野球に興味を持っも面白くない。」
 と言う訳ではありませんでした。絵を見るには、ほんの少しの着眼点、切込み、きっかけがあれば、それで良かったのです。後はいくらでも自分なりの疑問がわいて来ます。答えを絵の中に探します。 「 ああではないか、こうではないか 」 と考え続け、答えが見つかった時の嬉しさときたら! ……… そうすると、絵と対話している自分に気付きます。
 私の鑑賞眼の方は相変わらずですが、すでに 「 自分には絵が解らない。 」 とは思っていません。
 「 むしろ絵は、誰もが最初から解っているものなのだよ。 」
 アラスはそう教えてくれたように思えます。 「 いま踏んでいる大地が、どこまでも歩いて行ける足場だった事に気づいた。 」 と言うか、 「 魚が水の中にいた事に気づいた 」 と言うか、 「 本の山の中にいる人が、ようやく平仮名が読めるように成った 」 と言った感じです。
 「 絵は解らないものだ。 」 という絵画の前にあるこの最初の巨大な壁を、私はただいまクリアした状態です。これはアラスのおかげです。

 ところがその 『 絵を見る着眼点 』 が、ただ絵を眺めているだけなら、何年たっても解らない。これは残念ながら、天才にしか解りません。実際アラスでさえ、二十年以上もモナリザを実に冷ややかな目で見ていたと言います。( P17 ) モナリザを一瞥して 「 これは凄い絵だ! 」 と感じるのは、ラファエロやミケランジェロくらいのもので、普通は偶然を待つしかありません ……… ヒントが欲しい! 絵画の世界へと扉を開き、気になるあの絵の糸口となるヒント。その絵に対する自分の想いを示してくれる指が ………
 アラスの 『 モナリザの秘密 』 には、そんな絵を見るヒントに満ち溢れています。


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