モナリザ=山口百恵 説


 一般から歌手志望者を募る番組、『スター誕生』に出演した山口百恵を評して、かの偉大な阿久悠先生が、
 「君は映画に出るとしたら主人公の妹役が似合うんじゃないかな。主人公に必要な何かが、欠けているのかも知れん。」
 と看破しました。( 出 )

 審査員らはその他、山口百恵を、
 「強烈なものがない。」
 「インパクトがないと言うか、」
 などと評します。意外ですね。あの人達が国民的大スターの原石を見逃すとは。いや、実は見逃してはいなかったのです。阿久悠先生はもとより、ああ言った職業の人達は、微細な輝きも決して見逃さない。我々一般の者とは次元の違う感覚を標準装備しています。
 ただ、作詞家とスカウト、作家と編集者、そして大衆は、それぞれ違う目を持っています。何より、
 

目には光しか見えない

 のです。むしろ、目のある事で闇が見えなかったのでしょう。

 確かに山口百恵は誰かの妹、何かの主人公の脇添えでした。しかし全国民の妹、発展円熟期の国民の脇添えだったのです。
 山口百恵は一個人でありながら、「芸能界」と言うワクに収まる一部分ではないと、彼らは認識しました。それを芸能界のどこかに位置づける事は出来なかった。芸能界の専門家にとって、そんな場所は見当たらなかったのではないでしょうか?
 まったくあの頃の山口百恵は、
 「百円玉を見たら、モモエん玉に見える。」
 と言った人があるくらい、巨大な存在でした。
 テレビも雑誌も百色一色です。
 歌う曲にも、聞く者の鼻血を誘うような詩が提供されます。<注> 
 審査員らの言う、「主人公の資質に欠ける」「強烈なものがない。」「インパクトに欠ける。」 ……… これは『陰』『女』『女性原理』の特質そのものであると言えましょう。しかしそんな人間は実際にはいません。滅多に居るもんじゃありません。
 女は腑抜(ふぬ)けでへなへなしているかと言うと、そうではない。返って世界中の男に対し一人で拮抗できるだけの、何かの『巨大な欠落を持っている』のです。

 あらゆるものが「この欠落を埋めよう」と殺到します。そしてすべての中心に成るのです。
 光の中の一葉の影は、闇の中の一粒の光と同様(つまり正反対)で、光りの全部がその『うつろ』になだれ込みます。
 一休禅師が「釈迦も達磨も えいとひり出す」と詠んだ通り、本当の女性原理は世界をそのまま腹の中に容れて平然としていられるほどの、無神経な厚かましさと言うか、図々しさと言うか、底知れぬ強さを持っており、それこそは能動性ではなく受動性、「すべてを引き込む力」です。
 一休が「釈迦も達磨も」詠んだのは、「どんな偉い人も、女が産むんだ。」と言う以上に、女性原理はその中に世界を持っている。「男は世界を自由に、龍のように天翔けるが、女は自らの中に世界を持っている」と言うほどの意味もあると思います。
 『太母』グレートマザーに非常に近いものです。


 ひるがえってモナリザに、何か「強烈なもの」「インパクト」「絵画芸術の主人公たる資質」があるでしょうか? 何一つありません。
 地味なもんです。貝殻に乗って劇的に現れる訳でもない。瞳に焔を宿して神を見ている訳でもない。一切の主張なく、微笑んで、ただ座ってこちらを向いているのです。何と言う恐ろしい事でしょう! 「女房が黙って笑っていると、思わず謝ってしまう。」と言うご仁も多いはずです。


 あの頃の歌謡界に山口百恵がいなかったら、どうであったろうかと思います。
 同様の意味で、絵画に『モナリザ』がなかったら、美術史全体はどうだったろうかと考えます。
 (しかしそんな事はあり得ません。必ず誰かが何かの『モナリザ』を書いたはずです。)

 音楽で言えば、さあ、……… モーツァルトの交響曲40番がないようなものでしょうか? 「短調で楽しく歌う」とでも言うか、巨匠、かわぐちかいじ先生は、「歌っているのか嘆いているのか」と表現しておられます。あんな曲も他にありませんね

 40番の一楽章もモナリザ同様、一つの想念イデーではなく、相反するものを一つの旋律に仕立て上げ、何よりも自然に近づいたものなのでしょう。音楽と絵画と言うものは、まったく神話とマンダラのようで、私はモナリザと40番は、音楽と美術の中で、似た位置にあるのではないかと思います。そうしてそれぞれはもう、まったく似ても似つかぬものです。

 思うに多くの作品や人物が星座のように現れると、その中心に全てを飲み込む強い『うつろ』が出来る。人はそれを想定しながら、世界を認識している。老子のいわく、
 「中心には何もないから、無限の展開が出来る。」
 車輪には中心に何もない。だからその中心に軸を受ける事が出来、それで無限の回転が出来る。これは故、河合隼雄先生の言われた『女性的民族日本人の中空構造』に通じるものがあるように思います。これは陰の特性そのもので、もしこれが陽、中心に何かあれば、ローマのようにその中核を展開しつくして、必ず終わる事に成るのです。
 これが意識の『形式』で、人は意識の形式に従ってしか、物事を認識できない。

 唯一のシリウスも、偉大なオリオンも、それ自体は暗い指標、北極星を中心に回転するように、多分、これが世界の決まりなのです。それを玄徳と言うのでしょう。(← この表現はどこかで聞いた事があります。たぶん私のものではないでしょう。老子関係読み返すも、見つかりません。)
 モナリザは世界でただ一枚、何一つ主張せず、反対に、ただ人を引き込む巨大な渦のような絵なのかも知れません。

 私に言わせれば、ダ・ヴィンチがモナリザを『全宇宙の存在、その全部の中心』として描こうとしたのは自明の事で、これはダ・ヴィンチがモナリザを書くにあたって、キャンバスにまずキリストの素描をした事を説明する答えの一つでしょう。
 これは私一人の意見では決してなく、私同様の素人でも「モナリザの下書きにキリストが描かれていた」と言う事を知ると、ほとんど全ての人が意外の感と同じほど非常に自然な態度で「ウソだ!」と言わす「何故?」と聞き返す通り、モナリザを見た事のある人の、共通の確信であると思われます。


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