ダ・ヴィンチと、もう一人の万能の天才ゲーテ
(ゲーテ 最後の言葉、そして最後の行動)

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
( Johann Wolfgang von Goethe 1749年8月28日-1832年3月22日 享年82歳 )
 そのゲーテの最後の言葉として知られる、 「 もっと光を ……… 」
 これは、実話かどうか知りませんでした。しかしこのたび、これは確かという人の本を読み、詳しく知る事が出来ました。それは何年も前に買って読まなかった本、『 愛の詩人ゲーテ 』 。NHK人間大学シリーズのテキスト。著者は小塩 節 ( おしお たかし )。ドイツ文学の大御所です。これ以上確かな方もおられますまい。1998年放映ですが、30分枠で12回。さぞや充実した解説だったでしょうね。

 さて、この本によると、やはり 「 もっと光を ……… 」 というのは本当でした。しかもその後の大問題 『 W.という文字の謎 』 も、詳しく書いてありました ………
 この最後の言葉は、死に際して急激に視力が衰えたため、ブラインドを開けてくれるように言った言葉なのですが、このセリフがあまりにもゲーテらしいので、みんな、
  「 ちょっと待て、コーフンするなっ、落ち着け、まず落ち着けっ。ああ、びっくりした! 」 (笑)
 と、感動にブレーキをかけてしまう。
  しかしこの言葉は、ゲーテの人生と無関係であったとも言えません。

 これは河合隼雄博士が紹介しておられる例ですが、河合博士はある幼稚園児の描いた絵を、ていねいに分析しました。その分析は見事にその幼児の環境や心的状況と合致していました。ところがその絵 ( ジャックと豆の木を題材にした絵 ) を描く前に、園児は幼稚園で先生からこの話を聞いていたと判りました。 「 なあんだ。」 ですが、それではこの分析は無意味に成ったのかというと、そんな事もない訳です。( 出1)
 ゲーテは死に際して含みある、自分の人生を一言で象徴するような表現をしてしまったのです。
 ここは一つ、素直に感動しておいても損はない ……… かも知れません。( 笑 ) 
 この発言の経緯を知った上で、 ( この経緯がなければ芝居がかりすぎて、返って意図的、作意的な発言に成ってしまいます。 )  この言葉から、ゲーテの芸術や科学への飽くなき探究心、生の喜びや現実への愛着、恋愛や崇高なものへの果てなき憧れ、 ……… 光 ………

 いわば人間のすべての望みを、何の衒 ( てら ) いもなく求めてやまなかったゲーテの人生に ( その率直な人生への態度に )  ……… 思いを巡らすのも、無意味ではないと思われます。

  「 いったい自分にとって、光とは何なのだろう? 」 と。そして、
  「 我々も本当は人生を愛したいし、愛してもいるのだ。」 と。


 ゲーテもまたダ・ヴィンチ同様、超人的な万能の天才でしたが、私はこの本を読むまで、ここまで凄いとは知らなかった!
 そして案外、ダ・ヴィンチとも通ずる所があるのです。イメージとしては、まったく違う人物なのですが。

 まずダ・ヴィンチは 「 自分は絵では食って行けないだろう。」 と述懐していましたけれども、ゲーテは絵もよく描き、画家になろうと思っていた!( P116 )  意外ですね。世間の認識とは正反対です。人間、生きているうちは、そんなものかも知れません。

 ゲーテの美術の趣味はラファエロ。( これは、解りますね。 ≡ 笑 ≡
 ゲーテは恋多き人で、七十二歳の時、十七歳の少女に正式に結婚を申し込んでいます! この時にはさすがに失恋しました! 父親から断られたと、どこかで読みかじった記憶があります ……… )
 またアンドレア・パッラーディオという建築家に傾倒し、 「 パッラーディオのなかに詩人としての自分自身の映像を見た。」 と感動しています。( 『 アンドレア・パッラーディオ 』 で検索すると、複数の建造物を見る事が出来ます。 )

 ゲーテは科学でも解剖学の分野で、当時 「 動物にはあるが、人間にはない 」 と言われていた 「 ゲーテ骨 」 と呼ばれる顎間骨を発見。世界初の発見などは、生涯その分野に専念してもなかなか出来るものではありませんが、ダ・ヴィンチも解剖学の創始者的な人物ですから、 「 奇妙な符合 」 と済ますより、やはり彼らにとってミクロコスモスと呼ばれる 『 人体 』 は、特別な存在であったと考えるべきでしょう。
 またダ・ヴィンチのデッサン力、絵の力が、解剖学の進展に相当な弾みをつけたのは、想像に難くありません。後から振り返ると、解剖学の方でもダ・ヴィンチの才能を求めたように思えるのです。

 ゲーテ骨は、 『 人間も動物も同様の法則、典型があるはずだ 』 ( これは進化論の根本的な考え方の一つです。) という確信によって発見されたのですが、小塩先生は、この点を特に強調しておられます。
 また今東光によると、「 ゲーテの家の庭にはイチョウが植えられており、これはイチョウが古生代の植物であると知っていたからで、相当はっきりと進化論的な考えを持っていた。」 とか。そういえば私も、

  「 目が光を生み出している 」 というショウペンハウエルに対し、ゲーテが、
  「 とんでもない、光があるから目が出来たのだ。」

 と答えた逸話を、 『 世界はどこから産まれてくるか? 』 に紹介していますが、これは進化論的な考え方とともに、『 自然と、この世界を貫く一つの秩序への崇敬の念 』 であった。そしてその観察者でもあったからではないかと思います。

 つまりゲーテは、レオナルド・ダ・ヴィンチのような普遍的人間であり、自然科学者だった。その彼の自然への態度は、一言でいえば、 「 自然への畏敬 」 だった。神が造り、我ら人間をその中へ造りこんでくれた自然への愛と畏敬なのであった。 ( P111 )

 小塩先生の口からダ・ヴィンチの名前が出てきましたね。ゲーテとダ・ヴィンチを並べて論ずるには少し抵抗がありましたが、これで安心しました。


 また、政治家としてもザクセン・ワイマル国の枢密院参事官に就任し、『 若きヴェルテルの悩み 』 の著者とだけ思っていた周囲を驚かせる献身的な勤務ぶりで、鉱山・道路工事監督、各種学校教育の整備、軍隊を縮小し産業を振興するなどし、内閣主席にまで成ってしまった!
 しかもこれらは、自らの強烈な情熱を 「 欠落 」 と見て、それを補完し人格を完成するための努力の一環で、すべて自分の人格と芸術とに活かします。顎間骨を発見したのもこの時期です。同時的に、若い頃学んだスピノザの研究に再度没頭し、ゲーテは、

  『 総 ( すべ ) ての現象の中に、 「 己れ自身によって存在するもの 」 として原因であると同時に成果でもあるひとつの神聖な自然を見ていた。一切のものの中に美しい秩序を認めること、多種多様な動物及び植物の形態の中に統一ある 「 典型 」 を見ること、個々のものをそれぞれにあるがままのものとして、しかも同時に普遍的なもの、つまり典型の変化及びメタモルフォーゼ ( 変形 ) とみなすこと、 ( p40 ) 』

  という、彼の科学的・芸術的直観の基礎を築いた ……… といいますから、やはり超人としか言いようがありません。普通なら、一日が240時間あっても足りない所です。

 天才には 「 パラレル思考 」 が出来ると言われています。全然別の事を、同時、並行的に、もの凄い勢いでこなしてゆく。しかし彼らにとってそれは、別々の事ではないのでしょう。絵も文章も科学も、『 この美しい世界 』 の、一側面だったのでしょう。そして、この世界が知りたい。
 おまけに、 「 する事 」 によって、返って力や休息を得るようですね。ゲーテは、 「 文学をやるから、科学は出来ないや。」 とは思わなかったようです。( 思い出した。私は若い頃マネをして、三日ほど寝込んだ事があります。心の幅が足らなかった。あなたはどうか様子を見ながら、徐々に心の幅を拡大して行って下さい。 - 笑 - )

 ダ・ヴィンチも、都市の一つ一つが国だった戦乱の時代を、巧みなステップで駆け抜けてゆく小器用さもあり、チェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問をしていた事もあるのですから、結構どころか、立派に政治的な手腕も思考も出来たのです。この外的な才能は、内面を探求する芸術家にとっては相反するものであり、かなり珍しい事であると思われます。


 またゲーテは旅先で ( 14歳くらいの時 ) 、七歳のモーツァルトの演奏を聞き、終生大ファンに成ってしまったそうです。いや、羨ましい! 我々もそんな場面に立ち会いたいものですね。どんな曲を聴いたのか、興味深いところです。
 そしてダ・ヴィンチは楽器奏者で、自ら作曲もする音楽家でもありました。ミラノ行きでは 「 軍事技師として 」 で自分を売り込み、自薦状の最後の方で、 「 絵も描けます。」 と付記しています。
 そしてミラノでは、一介の楽器奏者として暮らし始めました。( 出2 )

 しかしゲーテは、音楽には深入りしないようにブレーキをかけたようです。
  「 音楽は音以外の媒体を持たぬ、もっとも直接的で純粋な芸術 」( 出3 )
 だからでしょう。
 ベートーヴェンも敬遠しました。
 ゲーテは友人から 「 ベートーヴェンが、今度はこんな曲を創ったよ。」 と、第五番 『 運命 』 の最初のフレーズを、 ( 一本指で彈かれた? ) ピアノで聞かされただけで、 「 天井が崩れてきそうだ。」 と言って、耳を覆ったと伝えられています。
  「 目の人ゲーテと耳の人ベートーヴェン 」
 と言われる事もあります。 「 視覚系 vs 聴覚系 」 です。これも示唆深く、確かな事と思えます。
 しかし ( 20世紀最高のベートーヴェンの理解者と言われる ) ロマン・ロランの、
  「 ゲーテは苦労して手に入れた精神的な平穏を乱されるのを好まなかったのだろう。」 ( 出4 )
 という見解が、多くを納得させています。

 ちなにみショウペンハウエルもモーツァルトがお好みで、ベートーベンにはほぼ無視の格好です。ベートーヴェンも好きな私は、若い頃この事にずいぶん残念な想いをしたのですが、今から考えるとショウペンハウエルの場合は 「 一種の近親憎悪ではないか? 」 と ………
  ( だって、急に怒りだすんですものね。あの人は。 - 笑 - )

 ゲーテは鉱山開発もあって、地質学と鉱物学に精通しましたが、ダ・ヴィンチも 『 手記 』 で、山の上に海の生物の化石がある事に、かなりの行数を費やしています。これは当時、この事実を聖書の 『 洪水 』 で説明する者がいるのに腹を立てたからですが、地球の造山活動を実感し、感動した事もあったでしょう。( 出5 )

 ゲーテとダ・ヴィンチ。何もかもまったく結びつかない二人に、している事や興味の対象に具体的な共通点が多いのは、まさにこの世界を貫く美しい秩序、個別の背後にあるイデアのようなものが、彼らを魅了して止まなかったからでしょう。これは自己に対する、激しい興味であると思われます。世界こそ、投影された自己自身に他ならないからです。



 しかしゲーテはストレスを溜めぬよう、気をつけてはいたようです。

  『 ゲーテは、ワイマル公国の行政責任のトップにありながら、長期休暇の事後承諾を求める書簡をあとから送っておいて、三十七歳の秋、二年間のイタリア旅行に旅立った。(P86) 』

  ……… 無茶苦茶しますね ……… この辺も作品を未完成のまま放っとらかして、どっか行ってしまうダ・ヴィンチと、似ているかも知れません。( 我々はあまり、そのままをマネしない方が良さそうです。 )

   「 イタリアが私を呼んでいる。
    ああ、ものすごく呼んでいる。
    居ても立ってもいられないっ ♪ 」

 もちろん、物見遊山に出かけた訳ではない ………
 おかげで我々は、『 イタリア紀行 』 を読む事が出来る。イタリアでのゲーテの研鑽が、その後各方面で世界に与えた影響も大きい。ワイマル国でもどうかしたら、ちょっとゲーテがいなくなっていた方が、みんなの自主性が出て、良い状況だったのかも知れない。
 本当の自分の声、よく 「 自己の最内奥の自己自身 」 と言われるものに従うという事。これこそ一番の難事ですが、そうすれば自分も周囲も何もかも、結局一番善い事に成るのです。ただ自分を犠牲にしても、周囲は良く成りません。 ……… ゲーテは国家より、神様の命令に従った ………
  ……… という事にしておきましょう ……… おおらかな時代です ………

 ゲーテは有名な 『 色彩論 』 も書いていますが、そういえばショウペンハウエルは 『 視覚と色彩について 』 の 「 第二版へのまえがき 」 で、
  『 そもそも、わたしはこの論文を一八一五年に書き上げたが、ゲーテはその草稿をわたしの予想以上に長期間かかえていた。彼はそのころ出かけたライン旅行にこれを持ち歩いたのである。 』
 と、愚痴 ( 自慢? ) たれていました。
 けど、相当迷惑したかも知れませんね ……… ( 笑 )

 欲しいものは、握る。
 握ったものは、離さない。
 旅行に行くのは我慢できないし、する気もない。 ………
 ( これも我々は、あまりそのままをマネをしない方が良さそうです ……… )


 しかし私がこの本で何より感銘をうけたのは、

  『 自然科学をきわめ、政治のおどろおどろしい世界では泥まみれになりながら、人間世界のすべてを知りつくしつつ、彼の表現はしかも幼子のようにすなおである。 』( p105 )

 という一文です。
 職場や学級でちょっとイジメられたくらいで、すぐに世の中や人間に絶望してしまう我々とは、えらい違いじゃないですか。
 特に政治の世界では、 ( 最近ではそれほどでもないですが、昔は ) かなり人間離れした顔の者が多かった。普通なら面相自体が変わってしまうほどの世界なのです。
( 現在も事態は改善されていると思えません。ただ、完全に狎 ( な ) れてしまったのでしょう。今ではもうみんな分業を徹底し、事務的に、何でも処理できるように成ったのでしょう。あざやかなものです。
 また、真面目なために顔が変わってしまった方もおられますので、投票の時、この点にはご注意下さい。 )


 しかしゲーテのこの力だけは、どこから来るのでしょうか? 常人離れした旺盛な生命力もあるでしょう。世界に対する激しい好奇心もあるでしょう。でもそれだけじゃ足りない。やはり自我の仕組みが根本的に違うのでしょう。
  『 こころ 』 は、人類普遍。古代も現代もまったく同じで、民族も宗教も関係ありません。極端な話、犬や猫のような動物とも、それほど差があるとは思えません。しかし、精神構造は大いに違います。我々の留意すべきは、むしろこちらです。

 欧米人の自我は対象と完全に隔絶されてある。日本人は 『 松のことは松に習え、竹のことは竹に習え 』 で、瞬時に対象と一体化してしまい、風景とさえ、見た瞬間一体化してしまう。むしろそれが矜持です。
 そういえば、西洋の風景画には人物が一切描かれておらず、東洋画の自然の中の人物を見て、たいそう面白く感じたそうです。だって風景を見ている自分が、絵の中に入っているのですからね! 日本人としては人物のいない風景画など、ただよそよそしいばかりで、むしろ特別な効果を狙ったのではないかと勘ぐってしまいます。
 また 『 無意識 』 の概念を知った時、欧米人は新鮮な驚きに満たされるのに対し、日本人は 「 何を当たり前の事ゆうとんねん。」 といった態度を取るそうです。( まあ、どちらももはや、昔話でしょうが。 )

 ゲーテに代表されるような西洋の近代的自我は、良く言えば甘えていない。悪く言えば世界から孤立している。酷い事をされたら、 「 人間とは酷い事をするものだ。」 と思い、醜悪な政治の世界を見れば、 「 人間はエサに群がれば、醜悪になるのだな。」 と知る。もちろん痛みや悲しみ、怒りを感じない訳ではありません。ただそれにギリギリの所で影響されず、対象を凝視して観察できる、強烈な自我がある。( これは日本人でも、優れた人はそうです。 ) この強さは激しい好奇心、探究心とともに、善に対する執念のようなものから来るのではないかと思います。
  「 人間とはこうあるべきなのに。政治とはこうあるべきなのに。」 などの、良識による規範意識がない訳ではない。 「 人間とはこうあるべきなのに、そうではないな。政治とはこうあるべきなのに、そうではないな。」 と、
 要は、『 ものごとをそのまま受け取る。それからどうするか 』
 です。

 酷い事があるといって、いたずらに絶望しない。
 その代わり、人間にも世の中にも、勝手な幻想を抱かない。

 これも如実知見というものかも知れません。
 原始仏典を読んでいると、『 観察 』 という言葉がしばしば出て来て、 「 理科の教科書みたいだな。」 と思った事がありますが、小塩先生はゲーテの眼について、更に詳しく説明して下さっておられます。

 分析ではなくて、観察。眼による注意深い観察。それをイタリアの旅でも自分の 「 方法 」 として改めて自覚しているが、そのさい注目しなくてはならないのは、個別のものへの一回的興味関心での観察ではなく 個別の背後に普遍的根元的な関連を見つめていく眼の力を鋭くとがらせていること、さらに、静的にでき上っているものをそのありのままに観察しながら、そのものの生成発展の動的な過程をありありと見ようとする努力である。この点に注目しなくてはなるまい。( P93 )

 我々は、ごく幼少の頃から 「 物事を分けて考える 」 練習をさせられ、それが知性で、 「 客観的な事は善い事 」 と繰り返し刷 ( す ) り込まれても来ました。ところが実は反対で、異なった物事の中から、その深奥にある共通点、類似性を見つけ、そこから全てを見てゆく事、新しいものを生み出してゆく事こそが、古来から知性と呼ばれるもので、そこでつかんだものこそが更に、他への万能の応用に道を開くのです。


 そしてこれはまったく知りませんでしたが、 『 ゲーテは立ち机で執筆していた! 』 ( P110 )
 多くの文章家にとって、 「 文章なんか立って書けるのか? 」 というのが感想と思います。 文章を書く時には無意識からの力を邪魔せぬように、一種、半瞑想状態に成って、運動系の神経はなるべく鎮静させておくものです。ところが逆です。普通の作家が煙草を吸いまくりながら書くようなものでしょうか? 意識は明瞭にしておくのです。似た例を一人だけ知っています。 「 稲垣足穂は、原稿を書く時には真冬でもパンツ一丁に成って執筆した 」 と聞いていますが、そのようなものでしょうか? 無意識からの力が強すぎて、反対に意識を覚醒させる方に努力する必要があったのかも知れません。しかしそれなら立って書く方が、少しはマシですね。( 笑 ) そういえば私も、書く時は背筋がピンと伸びている事にたった今、気付きましたが、このくらいで勘弁してもらいましょう。

 それとも 「 旅と行動の人ゲーテ 」 は、座る事を拒んだのでしょうか?
   『 八十二歳になるまで'彼は午前は立ち机で、そう --- すわり机ではない、立ち机に向かって立って執筆をし、午後は、杖ではなくハンマーをもって山野を歩いた。鉱物、岩石を調べて歩いたのである。それは単純な興味というより国家財政再建のための鉱山開発を考えたからでもあり、また、宇宙と地球の生成に深く思いをいたしたからだった。 』 ( P110 )  ……… 最後の最後まで、我々民草の生活を心配してくれていたのですね ………
  『 肺炎、肺水腫で胸が苦しくても、横になっているのを嫌がった。そして立ち机で執筆していた。』 ( P122 )
  とあります。 「 本当に、超人的な体力と生命力の人だなあ。」 と思っていましたが、
  『 死ぬと言われた大病を何度も乗り越えてきた 』 ( P122 ) という事です。
  「 この人は、違うんだから。」 と、自分とは違う、関係ない 「 ただ誉(ほ)めていたら良い人だ 」 と思っていましたが、我々同様、足は大地を踏んでいる。根本的な所では、条件は我々と同じなのです。
 腹は減るし、身体も痛む。将来の事も家族の事も心配だと、同じでありながら、あれだけの事をしたのです。作品の出来映えと共に、ここにこそ天才を賞賛する意義があります。それを改めて、思い知らされました。

 何でも自分と同じレベルにまで引き下げて安心しようとする、人や国や新聞があり、そのたびに私は、
  「 ゲーテを見るが良い。」
 と思っていました。あんな人間も、いるんだ。もう全的に、優れているのだ。サルとヒト、ネコとライオン、のび太と出来杉君くらい、違うのだと。
 それはそうですが、どうやら彼らも我々同様、苦悩の深さだけしか、高みには登れないらしい。これをよく実感していないと、我々は天才と無関係に成ってしまう。高みを見ても感動ではなく、羨望と嫉妬しかなくなる。これは取りも直さず、自分の人生から、唯一の救いを拒絶する事でしょう。

  『 ゲーテにとっても、人生は苦く、暗い苦難の道であった。一生をふりかえっで自分でしあわせだったと思えるのは、十刻もなかった。しかし、人生を生きることは、やはりほんとうに美しかった。( P121 ) 』

 ゲーテの人生を浅く見ると、 「 楽しげな 」 印象を受けるのですが、実際は 「 美しかった 」 のでした。


 さて、最後の謎です。小塩先生も最後の言葉を、
  『 視力のおとろえた臨終近い病人のことばだと考えるほうが自然だろう。 』 としながら、

  『 それよりもっとずっとゲーテらしいことが起こった。指を虚空にあげ、何か文字らしいものを書いた。長男の嫁さんのオティーリエたちが肘かけ椅子のうしろにまわってうかがうと、Wという字らしい。しっかりとピリオドの点を打っている。その手が膝の上の毛布の上におち、もう一度たしかに大文字のWという文字を指先で書き、ピリオドを打った。その瞬間に、その手がコロンと転がり、すっと血の気が引いた。と、首も横に折れて、息が絶えた。
 理屈好きのドイツ人は、その後、ゲーテが 「 世界 」 か 「 世界平和 」 ということばを書こうとしたのだと言うのだが、私はそうは思わない。彼は自分の名前、ヴォルフガング・ゲーテの頭文字をこの世に刻み残そうとしたのだと思う。彼が愛してやまなかったヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトと共通の名、その頭文字にほかならぬ。そうでなくて、どうして大文字のあとにピリオドを打つだろうか。 』 ( P123 )

 私は上を読んだ時、
  「 これは著名だ。」
 と思いました。つまりゲーテは、

  「 あっ、息ができなくなった。
   この状態では一分もつまい。
   この人生は終わった。」

 そう思って、自分の人生を自らの作品、著作物と見て、最後の行に著名したのではないか?
 終生、筆にも口にも出来なかった、つらい罪の想いもあったように思います。それらも全部ひっくるめて、責任を負う。自分の行動として、人格として、認める。グレートヒェンのように。
  「 神の前にただ一人で立つ。」
 という、キルケゴールが殊に意識した、欧米人の大きなテーマです。

 翻 ( ひるがえ ) って私の人生はどうだろう? 自分の作品だなどと言えるだろうか? ただ流されて、用意された本のページをめくるように年月を重ね、ただ耐えて、目の前に現れる活字を目で追っていただけのような事が、いかに多かった事だろう? それは悔しくも、仕方のない事の方が多かった。これも、天才たちと同じだ。何が違うのだろう? 才能が違うのは、これは仕方がないし関係もない。自分への正直さ? 勇気? それは小さな事ではあるまい ……… しかし ………
 もしかするとこの答えは人によって異なり、しかも自分で見つけねばならないものなのかも知れない ………

……… 答え、というより、書くべき物語なのかも知れない ………


 ところでこの最後の行動が 『 著名 』 というのは、私自身の気付きとは言いがたいものです。小塩先生がそう誘導してくれたように思います。例えば、

 『 世界の根源にある ( はずの ) 光を求め、その光に対してのみいわば責任を負って自分をしばりつけているさまざまの束縛をうち破り、束縛から自己を解放して、自分をも人をも自由にしていこうとする、そのような 「 意志 」 の力である、ひとことで言えば、光に対応する人間の自由への意志である。 』 ( P59 )

 と、最後の言葉をそのまま受け取る事には否定的だったのに、ゲーテの人生を光を使って表現するのに続けて、 ( つまり、死に際する言葉を連想させた後、 ) 西洋の近代的な自我に触れ、

 『 近代人はそういった共同作業から離れ、しだいに自分の仕事を見つけ出し、自分の個性、自分の名を刻もうとしはじめたのだった。 』 ( P61 ) と。

 おそらくこれはフィナーレで、大切な一つの旋律を読み手の心の中から響かせる、という小塩先生の高度なサービスで、その上で 『 書くこと 』 を、主旋律として謳いあげておられます。

  『 たった一言でいいから 「 書く 」 という行動をとるとき、私たちの生命は暗い中にも精いっぱい充実し輝く。書くという行為はほんとうに前進的な、生きることの表われにほかならない。( 中略 ) それは自分自身と対話し、自分自身の中から何かをつかみ出し形を与え、そして自分自身になるという行動だった。 』 ( P124 )

 おそらくこれは、小塩先生の、ご自身への言葉だったのではないかと思われます。


 最後に私事に触れますが、 「 大作家になろう。」 と思っていた17歳の私の望みを粉微塵に打ち砕いたのが、ゲーテの 『 ファウスト 』 でありました。 「 こんなものが百年も前にあったのなら、この上何を書く必要があろう? 」 という訳です。五年ほど、一切なにも書く事が出来ませんでした。いや、自身に禁じたのです。
 滑稽な事です。しかし、結構類似の経験をする人があるようです。

 作曲家を目指していた兄Aは、チャイコフスキーの伝記番組を見て、たいそう落ち込んでいました。( = 爆笑 =  したれ。 )  某漫画家も少女時代( ? ) 、萩尾望都の某作品を読んで、三年くらい描けなかったと書いておられたように記憶しています。
 おかしいですよね。よりによって 『 神 』 と呼ばれる萩尾望都と自分を比べるとは。兄Aなどはチャイコフスキーと。私に至っては、ゲーテに比べて自分が劣っているのが不服と?
 これは実は、比べている訳ではないのです。どちらかというと、比べようもない事を思い知らされたのです。おまけに、その時の自分とです。
  「 今からうんと努力して、いつかしようと思っていた事 」 が、とうに出来ていた事に愕然として、それを自分だけが知らなかった事のように思い、恥じ入ってしまったのです。
 その分野に対して、自分が捧げようとしていた情熱のすべてが、宙に放り出されて行き場を失ったような格好に成ってしまったのです。
 何故かしらん、読んだら、 「 おもしろいっ、こんなの書きたい! 」 と思う作品と、タイミングによっては 「 もうダメだ。」 と思ってしまう作品があるのですねえ。( 笑 )
 たぶんこれは共時性の一種で、 「 本とのめぐりあい 」 などと言うでしょう。私も何か考え始めた時、それそのものを書いた本を手に取るという事が多かったのです。
 人は夢想が具体性を持ち始めた時、それが完成された作品に出逢ってしまうのではないでしょうか?

 それから私はここ数年、再び 「 無駄な事をしているなあ。」 という倦怠的な気持ちに成り、去年などはまったく書けなくなり、へこたれている所へ、慰めと励ましの言葉を掛けてくれたのが、かつて私を叩きのめしたゲーテの、その研究の大家だったのです。不思議な気がします。
 誰しも最高の高みに憧れて歩き始めますが、誰にも書けない文章を書くのが目的ではない。自分のものを自分が書く事が、大事だったのです。それでこそ何かに少しでも貢献できて、むしろ、それが出来たのがゲーテやダ・ヴィンチだったのです。
 私はこれからも、書く事がやめられないでしょう。

 書く事は 『 光 』 との、お喋りなのかも知れません。



   PS.2
 これを書きながら、共時的に 『 最澄と空海 』 ( 梅原猛 著 小学館文庫 ) を読んでいたのですが、
 超人的な、あまりに超人的な空海と、人間的な、あまりに人間的な最澄。
 いや、面白かったーっ。
 で、日本と日本仏教を創った人として、ちらちらっと聖徳太子の事も出て来たのですが、考えてみると、天才たちのする事はよく似ております。

 ◯ 学問、芸術に突出した技能を持っている。( ほとんどその分野の、歴史上の最高峰です。 )
 ◯ その作品や思想の中に、もはやすべてと言って良いほどの極めて多くの要素が盛り込まれてある。それまでの総括と、その後のすべての土台となる要素が、見事にある。
 ◯ 高い宗教性をもって、歴史や分野の大きな流れに関与する。( 何故か、その時その場に居合わせる。 )
 ◯ 建築・土木系の仕事をする。
 ◯ 政治に辣腕を振るう。
 ◯ 産業に貢献する。

 空海も最晩年に 「 水銀は大切にするように。」 と訓戒したらしく、水銀は、金の精錬、神社の鳥居の赤い塗装、女性のおしろい等、広範囲に必要だったそうで、( 大雑把に不正確な事を言うと、それが魚介類に吸収され有機水銀に成ると、始めて強い毒性を持つのだそうです。そして水俣病発生の時には誰もそれを知らず、被害が拡大してしまった。しかしもちろん、飲んだりしたらダメですよ! 私の知っている人で、中学生の時に面白がって友達から水銀を飲まされ、家族ともども一生を台無しにされた人を知っています。若くして亡くなりました。)満濃池の改修等、生涯を通じて産業にも腐心してくれたようです。
 また話が飛びますが、水戸光圀、黄門さまも、今で言うと大学者だったようで、『 大日本史 』 の編纂事業以外にも、自ら植物の研究をして交配を繰り返し、品種改良したものを領民に分け与えるなどしていたそうです。私はこれをNHKか何かの歴史番組で知ったのですが、
  「 後世から神格化される人は、民衆のために尽くした人なのだなあ。」
 と、つくづく思ったものでした。良い事は何でも空海のせいにされ、
  「 日本国中、空海の作った井戸のない村はない。」 と言われます。

 ゲーテもダ・ヴィンチも、空海・最澄・聖徳太子も、時代も地域も、タイプも経歴も全然違う人ですが、『 具体的なやっている事や興味の対象 』 には非常な共通点がある。特に聖徳太子は本文の中に、
  「 経典の注釈書を書くような人間が、実際の政治の世界に君臨し、しかも冠位十二階の制定など、集団化した時の人間の犬の性質を利用して、良い子の順に序列をつけるなど、云々 ……… 」
 と挿入しようとしたのですが、ダ・ヴィンチからゲーテまで充分に距離があり、このうえ聖徳太子まで持ち出すのはあんまりだと思い、書けなかったのです。

 また、『 ゲーテは、ワイマル公国の行政責任のトップにありながら、長期休暇の事後承諾を求める書簡をあとから送っておいて、三十七歳の秋、二年間のイタリア旅行に旅立った。 』 という件 ( くだり ) では、空海が二十年の留学期間を、勝手に二年に短縮して帰って来た事を思い出しました。案外この時のゲーテのようなノリで帰って来たのかも知れません。確かにあの時から十八年間も、唐でごちゃごちゃしている空海など、我々には想像も出来ません。「 用のなくなった所に、一分も居れるかいっ。」 という訳です。空海の人生は、呵呵大笑しながら全速力で天翔ける龍のようでしたから。

 しかしちょうど自分が読んでいる本に聖徳太子が出てくる。おまけに最澄、空海とも似ているぞ。 「 あらまぁ 」 です。で、末筆ながらご紹介させて頂いた次第であります。
 五人とも、もしあんまり地上を見過ぎた神様が、人間界を心配して生まれて来た場合、やりそうな事と、したい事をしたと言えましょう。

 生まれとしてはダ・ヴィンチが最低。この万能の天才は私生児であったため、公証人( 弁護士と会計士を兼任する、今の公認会計士に近いような職業だったそうです。)だった父親の組合に 「 婚外子は父の仕事を継げない 」 という強い決まりがあったため、父親が別の女性と結婚すると初等教育を中断され、職業訓練校に転向させられてしまったそうです。( 出6 ) まあ、訓練学校の先生方は、ダ・ヴィンチを教えていて、かなりビビったかも知れませんね。( 笑 )  彼の学問は、ぜんぶ独学です。その代わり同性愛など、余計な事は教えてもらったようです。( 出7 ) 普通だったら、思春期に自殺するパターンです。
 空海も若いときに自殺未遂をしたという伝承もあり、梅原先生は、はっきりとタナトス( 死への欲動 ) という言葉を使っておられます。( 出8 ) 伝説の大超能力者でもある空海を、心理学のマナ板の上に乗せるという発想はありませんでしたので、びっくりしました。
 そういえば80年頃、『 人間仏陀 』 という表現が大はやりで、これは神格化された仏陀が、「 人間だった方が、よけい凄いんじゃないか? 」 という見解の転換によるものですが、その後 『 人間◯◯ 』 という表現が百出したのでありました。( 笑 )

 天才というのは、無意識へと意識が開いているのですね。無意識の口が開いている。それで物を見たら、その奥にあるものが見える。けれどもそこから 『 影 』 も出入りする。彼らは西洋では 『 影との和解 』 東洋では 『 影の封印 』 と表現される事をしなければなりません。嵐のような、濁流のような葛藤。そしてその心から産み出される運命との 『 戦い 』 と成ります。

  「 天才達の中には、実に悲惨な人生を送った人々も多いが、その過酷で卑劣で不条理な運命や環境も、あのように優れて清らかな人々の心が、自分で産みだしたと言うのか? 」

 とおっしゃるかも知れません。私も長くそう思って、苦しくも不思議にも思っていました。
 しかしこれは、自我と自己を混同していたのです。
 唯識を代表として、世界中、人類普遍の考え方通り、『 心がこの世界を産み出している 』 というのなら、良き人の環境や人生は、良いものだらけと成る筈です。なるほど、もしその人の
『 自我が世界を産み出している 』
 なら、そう成るでしょう。しかしそれならば、座ろうとしたイスを引かれた場合、虚空に座っている事が出来るでしょうね。自我がそう思っているのですから。
 その他、絶対当たる、絶対上がると思っていた宝くじや馬券、株は、ぜんぶ大当たり、大上昇という事に成ります。
 ところがそうは成らない。これは、
  『 自己が世界を産み出している 』
 からです。この場合の自己とは、世界 ( 宇宙 ) や物質を産み出し、存続させているような意味での自己、人間や人間世界を産み出している自己、この宇宙だとか世界だのは、この話では 『 世の中 』 です。
 世の中とは、太陰太極図の示す通り、陰と陽、生と死善と悪が回転し、その調和によって現出している世界。『 架空 』 と呼ばれるにふさわしい、この現実第三次元の世界です。  そうしてこれは、他人ごとではない。桁 ( ケタ ) が違うとはいえ、我々も同じ道を歩む宿命です。私は兄Aを見ていて、
  「 ベートーベンの100分の1しか才能がなくても、苦悩の方はたいして変わらんのだなあ。」
 と感心した事があります。( 笑 )
 それで彼らの作品や足跡が、我々にとっても非常な参考にも慰めにもなる。これは旅をする時の地図や手引書にもたとえられるでしょう。

 天才は上流に生まれても、しばしば仏陀のようにいったん全部、自分でそれを捨て、最低から始めます。空海も最澄もエリートコースを放棄して、乞食のように成ってしまった。そしてその後、国家の支配階級を制御し、方向づけるような事をします。
 自分の理想が国家の理想と合致しており、それを説得出来たからでしょうか? 不思議ですね。
 ダ・ヴィンチも晩年、国王フランソワ一世の厚遇を受け、もうベタベタに尊敬されていましたので、考えたらその後のフランスに与えた影響だけでも、相当なものだったでしょう。
 嵯峨天皇は空海を、桓武天皇は最澄を深く信頼し、おかげで空海は高野山を、最澄は比叡山を打ち建て、ともに技術も含む諸学を教える総合大学を創立し、特に最初の総合大学、比叡山からは、法然、親鷲、栄西、道元、日蓮、一遍ほか、数多の人材を輩出しました。我々が一番、直接的な恩恵を受けているのは、最澄からかも知れませんね。そんな事は普段、まったく意識しないのですが。

 そしてたとえ不幸にして親もなく、良き師、上司にも恵まれなかった人であろうとも、彼ら天才達からは、彼らの人生ぜんぶを捧げられたような恩恵を受けている。そう考える事はまた、我々の意識の正常化に、多少以上の貢献がありますまいか?


 ゲーテは最初から最後まで上流でしたが、ウェルテルを自殺させていますから、やはりかなりの苦悩 があったのでしょう。( 知人が恋愛自殺したのをストリーに採用したのですが、それに着眼するのはやはり同じ事です。 ) 加えてゲーテは少年時代、手折った薔薇の棘が胸を刺し、これが屈託のないエリートとしてこの世を遊園地とは出来ず、暴流のような自らの才能を渡り切る ( ショウペンハウエルの言葉を借りれば ) 船底の錘 ( おもり ) として、心のバランスを取り切ったのかも知れません。

 サルとヒトほど違う神人族が、この世でやる事に関しては、これは心理学の分野かも知れません。『 天才心理学 』 というのを誰かやって欲しいっ。( 笑 ) と思っていたら、ありました! かのクレッチマー、体型と気質を結びつけたあのクレッチマーがやってくれていました! しかし今では発達障害の研究なんかで相当重なる所があり、もっと進んでるのかも知れません。例えば親鸞上人は五歳くらいまで、アインシュタインは十歳くらいまで、ろくに喋れなかったと聞いていますが、あれはまだ生まれて来るのを嫌がっていたんですよ、きっと。( 笑 ) その人生でしたい事をするためには、胎児の状態での発達が、生まれてからも何年か必要だったのですよ、きっと。
 一見、我々と関係のないように思える最高の人々の思索や人生が、最低と呼ばれる人々の何かに似ており、我々凡人の直接的な支えに成るというのは、ちょっと小気味良くないでしょうか? みんな深い所では、つながっているのですね、きっと。期待しています。


( 出1 )『 ユング心理学入門 』 培風館 P127
( 出2 )『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 』 田中英道 講談社学術文庫 P85 ,116
( 出3 )これも、ショウペンハウエルの言葉です。
( 出4 )『 ベートーヴェンの生涯 』ロマン・ロラン 岩波文庫 p80
( 出5 )『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 』 田中英道 講談社学術文庫 P129
( 出6 ) 16'01/10 テレビ大阪放映 『 古代文明ミステリー 』 たけしの新・世界七不思議大百科 第三回 より。
( 出7 )『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 』  田中英道 講談社学術文庫 P30~31
( 出8 )『 最澄と空海 』 梅原猛 小学館文庫 P239


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