個性化とマンダラ

C.G.ユング著 林道義 訳 みすず書房


  『 モナリザの謎と秘密について 』 を作るにあたって、一番参考にしたのは絵画の本ではなく、実はこの本なんです。

 いや、私のオリジナルの部分は、全部これ一冊と言っていいんじゃないでしょうか?
 すべてはこの本に書かれた発想と技法に依っております。

 この本に何が書かれているかと言うと、形や色彩などのイメージを、言葉に翻訳する方法です。
 絵を言葉にする、絵と対話する技術
と言っても過言ではありません。
 絵を読み解く際の辞書とも言えるでしょう。
 そう聞くと、あなたも顔色が変わるのではないでしょうか。実際、私もこれを読んだ時には驚きました。そんな事は生まれつきの才能を持った人々だけが出来る事であり、学んだり習ったりは出来ないものだと思っていたからです。ところがこの本は、 『 それは誰もが何となく、最初から知っているような事でもある 』 と教えてくれる、気づかせてくれるのです。
 これらの技術は、私のように絵画の才能のない者が絵を見る時おおいに助けになり、おまけに美術の鑑賞眼の根っこも鍛えてくれます。
 絵に習熟した人にとっても、その基盤をより強固にし、意識との対話を容易にし、特にモナリザのように、ほとんど斬り込みようのない絵の解読の糸口を見つけるには、実に有用な一冊です。

 ユング一連の著作の中でも異色の一冊で、美術に関心のある方には特にお勧めです。

 私がモナリザに取り組み始めたのは、当のダ・ヴィンチ・コードで 『 象徴言語 』 と紹介されたものがだんだん自由に読めるように成って来て、それが面白くてたまらなく成っていた頃でした。
 とにかくこちとら 『 美術 』 に関してはど素人。最初っからこれ一本でやってやろうと思っていました。と言うのも、この方法で 『 モナリザ 』 を解析した文章は読んだ事がなく、
 「何故あれが世界一の名画か? あの絵はいったい何なのか?」
 が知りたくてたまらなかったのです。


 さて、本の内容ですが、4つの論文から成っています。
 まず第一論文  『 生まれ変わりについて 』
 輪廻転生は東洋の発想と思っていましたが、キリスト教圏の「復活」も含めて考察します。言われてみれば、ナルホドですね。

 第二論文  『 意識、無意識、および個性化 』
 ユング心理学用語でとりわけ有名な 『 自己実現 』 、つまり 『 個性化の過程 』 、自分自身になる事、ロランの言葉を借りれば、「人間は人間に成るために生まれてきた」と言う事を、実に端的に説明してくれています。
 以上は絵画や図像の解読とは関係ありません。次の第三論文は、その自己実現の「実例」ですから、これは第三論文のあとで読まれると、よけい面白いかも知れません。現実の事象から普遍的理論を構築すると言う、ユングの「思索の足跡」をたどる事に成るからです。

 第三論文 『 個性化過程の経験について 』
 いよいよ絵の話です。美術に関心のある方は、ここから読まれるのがお勧めです。
 被験者は高度な教養を持つ、非常に聡明なX婦人。彼女の精神の成長とともに描かれた数十枚の絵を、ユングが世界中の文化圏から着目した図像、神話などを交えて解説します。
 そんなものが絵画の創作や鑑賞にどう関連してくるのでしょう? それは、
  『 作品を言葉で表現し、意識化し、その目でまた作品を吟味する事 』
 が、芸術の理解に非常に役立つからです。

  例えば音楽でもそうです。名教師は巧みな「表現で」生徒を指導します。
 「 歌うように弾いてごらん。」
 「 転調する前は川の流れを、その後は森を思い浮かべて弾いてごらん。」
 「 右手と左手を、違う人の声と思って弾いてごらん。」
 「 十本の指を、それぞれ違う楽器と思って弾いてごらん。」 ( そんな無茶な。)

 これら、感覚をコトバで表現し、理性を感性や感情、また直感と対話させる事は、芸術などの本来「学び得ず、教え得ぬもの」を修習する際には、一つの王道です。また、学ぶ者にとっては最初から最後まで杖となる、稀なものであります。
 もちろん、他の方法もあるでしょう。しかし、言葉が最も容易にイメージを表現でき、受け取りやすくもあるのです。これは多分、言葉が 『 右脳と左脳をつなぐもの 』 と言われている事にも関係があるでしょう。「熱い」と言えば、その感覚がすぐ実感できますものね。
 そうしているうちに、脳にも心にもアナロジーという最強の武器が構築されてゆきます。着実に。

 第四論文  『 マンダラ・シンボルについて 』
 ユングが患者や自らの描いた絵を興味深く眺めていると、それとそっくりの図像が 『 マンダラ 』 としてあるのを知った! 有名な話ですね。この辺からユングは絵や図像からも、人類の普遍的な意識のありさまを探求してゆきます ………
 ユングはいつも見事な案内人で、例えば登山家が、初心者に注意すべき点を教え、何でも自分で着眼出来るようにし、あるいは見過ごされていた山の幸を教えるように、世界をより「意義深いもの」にしてくれます。この辺の智慧の習得が、私には、人間として生まれて来た甲斐であるように思えます。

 しかし私はかなり前に読んだ本なので、忘れていたのでしょう。読み返すと自分で考えた事と思っていたものが、たくさん書いてありました。例えば私が母、娘、太母、そしてマリアから叡智へで紹介した、
  『 自己は両性具有的存在であり、それゆえ男性原理と女性原理の両方から成っている。 』
 などは、盗作のレベルかも知れませんねえ。(泣) しかしモナリザはそう描かれているのだから、仕方がありません。でも本当にモナリザをよく言い表した言葉です。ちなみにそれに続く文章は、
  『 コンラート・フォン・ヴェルツブルグはマリアを、キリストをうちに含む、海のなかの花だと述べている。 』 (P189)と。
 これは本文で紹介したダニエル・アラスの言葉
 「ケネス・クラークは、《モナリザ》は海底の女神のように見えると書いている」
 と、そっくりですね。しかもやはり「の中」 ………
 おまけにモナリザの奥にはキリストが描かれているのですから、これでは「モナリザのモデルは母、あるいはマリア説」が廃(すた)れないはずです。

 「絵の読み解き方」などは、教わりようのないものと思っていましたが、ユング本人が手取り足取り、懇切丁寧に教えてくれます。私にとっては衝撃の連続でした。
 ユングファンでまだ読んでおられない方にも、ぜひお勧め。今まで読んで来たものが、絵で説明されています。
 また、この本からユングに入って行くと言うのも、非常に面白いかも知れません。


   PS.1
 私もあらゆる馬鹿もの同様、「 もっと勉強しておけば良かった。」 と後悔している者ですが、( 今からせい。) 学びそびれたものの中でも取り分け大きなものが、 『 日本仏教 』 でした。ま、さいわいな事に、若いころ勉強していても解らなかったでしょうけどね。( それはご不幸な。)だってあんなのリクツじゃないでしょう。かつてオウム事件の時、私でも知っていた高名な宗教学者と仏教学者が( どなたか忘れましたっ。) 深夜番組で対談し、ある大きなお寺が立ち行かなくなり、別の宗派に引き渡される事に成った時のエピソードを紹介していました。

 引き取り手のお坊さんが、
 「 さて、そもそも貴宗の教義とはどのようなものですか?」
 と問うと、しばらーく考えて、
 「 仏教に教義など、ございません。」
 それを聞いたお坊さんも、しばらーく考えて、はっと気づいたように、
 「 そうだなっ 」 と。
 ( 爆笑 ……… したのは私と、そう話し合っていた両学者さまでした ……… )

 確かこのお坊さん、二人とも浅学の者ではなく、少なくともどちらかはその宗門のトップ、大僧正だったように記憶していますが、これ、外国の人が聞いたら机でがんっ、と額を打つでしょうね。
 とにかく日本仏教は 『 感性 』 と、その向こうの 『 霊性 』 の宗教と思います。よっぽど感性が鋭く正しくないと、言葉やリクツだけ追っかけても感動が伴わず、「はあはあそんなもんですか。」 と (笑) 退屈してしまう。要するに、解らなかったのです。
 で、象徴言語が読め始めてしばらくした時、「 今だったらかなり学べるな。」と感じた事を覚えています。
 「 日本仏教やるには、象徴言語が読めるような脳がいるわ。」
 そう思いました。大きなテーマから小さな論題まで、それを元型的なイメージから派生したものと把握して配置し、

『 物語のように思考してゆく。 』 それで正解へと迫って行ける。

 思い出してみると分野を問わず、鋭い先輩やえらい人は、みんなそうしていたように思えます。

 だから、この本は文系のよろづにヨシ。いや、理系でも、色々な現象や素材の性質など、そのように把握して研究を進めているように見えます。
 物語は語りはじめた時に、すでに結末へと踏み出している。問題には既に答えがその内側にある。おそらくはこれが、根本的な脳の仕組みだからです。
 ( なければ答えが問題に包み込まれているか、その上を歩き回っているか、また問題と答えが直接には無関係で、媒介となる要素が欠落しているくらいでしょう。)

 もちろん文学の方でもその通りで、例えば宮沢賢治の 『 猫 』 と言う謎の小品があるのですが、私はこれを 『 耳なし芳一 』 と対比させて書きました。 ( 一応、右にリンクを貼っておきます。 『 宮沢賢治は猫嫌い? 』
 言葉を形象に直して、芳一の全身に書かれた経文と、猫の全身に張りめぐらした網を共通の要素として対比させ、両作品を見たのですが、これはアナロジーの見本のようなものです。この 『 アナロジー 』 が、なっかなか出来ないのです。出来たらもう、飛車角が裏返ったような、オールマイティの強力な武器です。
 で、「 何故こんな事が出来たんだろう? 」 とつらつら考えると、
 「 あっ、この本のおかげだ!」
 と、いま気づきました。この本は、今まで色々蓄積してきた人にはそれを一気にスパークさせる火花として、蓄積中の人にはその効率的で大きな方向を示す声として、感じられる事でしょう。

  『 脳づくり 』 の観点から、この本は特選の一冊です。


   PS 2.

 ところで私は 「 X婦人は絵がうまいなあ。」と感心していましたが、読み返したらユングは、
 「 始めたばかりの能力のない人にはよく見られることだが、絵を描くということは彼女にとってなかなかむずかしい仕事であった。そういう場合にはえてして、意識の背後にあるイメージを無意識が容易に画面のなかに、いわば密輸入させるものである。」(p73) また、
 「 彼女の絵が下手なことを利用して、無意識が自分自身の輪郭をあらわにしたということである。」(p75) と言っていました。

 ま、私の鑑賞眼なんて、こんなもんです。(泣)


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